千坂景親
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文5年5月3日(1536年5月22日) |
死没 | 慶長11年4月24日(1606年5月30日) |
別名 | 清胤 |
戒名 | 鶴齢院殿亀仙宗策居士 |
墓所 | 山形県米沢市 一花院跡 |
官位 | 対馬守 |
主君 | 上杉謙信→景勝 |
藩 | 出羽米沢藩 江戸家老 |
氏族 | 千坂氏 |
父母 | 父:千坂景長 |
子 |
太郎左衛門、長朝 養子:高信(満願寺仙右衛門) |
千坂 景親(ちさか かげちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士。上杉氏の重臣。
経歴
[編集]概要
[編集]天文5年(1536年)、千坂景長の子として誕生。千坂氏は上杉氏の四家老の一つで、蒲原郡白川庄女堂村[1] の鉢盛城主であり、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時に、謙信の重臣となった。景親は謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなく、それが謙信の他の重臣と比して景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある[2]。謙信の没後は上杉景勝に仕える。
景親は合戦での活躍はほとんど無いが、外交・情報収集能力に優れており、景勝政権下では上杉家の外交役として活躍する。
伏見留守居役の時期が「豊臣秀吉の死去」・「徳川家康の台頭」・「家康の上杉討伐の動き」・「関ヶ原の戦い」にあたるため、その経過をとりあげた小説や直江兼続の小説には京都における上杉方重臣として豊臣方・家康方双方と接触する役柄として登場することが多い。
天正14年(1586年)に景勝の上洛に付き従い、6月16日(8月1日)には大坂城で直江兼続と共に千利休の手前で茶を頂いている[3][4]。会津移封で大沼郡5500石を受領。
伏見留守居役
[編集]文禄4年(1595年)に伏見城普請総奉行に任命され[5]、11月にはその功績を認められて伏見留守居役となる。[6]
慶長4年(1595年)から慶長5年(1600年)は豊臣秀吉の死去・徳川家康の台頭と上杉討伐出兵・関ヶ原の戦いと上杉藩にとっては激動の期間になったが、この間、千坂景親は伏見留守居役として、重要な情報を頻繁に本国に注進した。 「上杉家御年譜3」には千坂からの注進内容が記載されている。[7]
伏見滞在中、直江兼続とともに妙心寺の南化玄興、海山元珠に帰依し、慶長3年(1598年)塔頭「亀仙庵」(現在の雲祥院)を創建。[8][9]
初代江戸家老
[編集]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には徳川家との和睦を主張し、本多正信と親交の深い事から、同じく和睦を主張した本庄繁長と共に折衝役を務める。
死去・供養塔
[編集]慶長11年(1606年)、71歳にて江戸で死去。
米沢市中央「一花院跡地」に享保4年(1719年)建立の那須与一と千坂景親を供養する三重の石塔が保存されている。 那須氏と千坂氏が縁続きという千坂家の伝承から、景親の子孫が建立したものと思われる。[10]
子孫
[編集]家督は親戚筋からの養子である高信(満願寺仙右衛門)が相続した[11]。一説では、江戸家老となった後、武門を捨てて旧領内の山崎金剛山西野坊に入門、同地に修験寺院・自正院清胤寺を開いたという[12]。
以後、千坂氏は江戸時代を通し米沢藩の重職を務め、子孫には江戸時代の江戸家老・千坂高房[13] や上杉鷹山の藩政改革の折に七家騒動で処分された千坂高敦(対馬)、幕末に戊辰戦争で米沢藩総督を務め明治時代に石川県令、岡山県令、貴族院議員となった千坂高雅、その次男で海軍中将の千坂智次郎、三男で陸軍中佐の千坂洋三郎、作家の千坂精一らがいる[14]。
脚注
[編集]- ^ 新潟県阿賀野市女堂。
- ^ 『戦国大名家臣団大全』P50スタンダーズ2018.12
- ^ 『天正十四年上洛日帳』
- ^ 『上杉家御年譜2』P432-434
- ^ 『上杉家御年譜3』P116「文禄4年冬10月上旬 越府ヨリ人夫来リ 近日邸地ノ御造営アルヘキヨシ 直江山城守公命ヲ承リ 総監トシテ 千坂對馬守ニ仰付ラル・・」
- ^ 『上杉家御年譜3』P116「文禄4年11月 伏見ノ邸宅落成ノ後、御留守居ニ千坂對馬守仰付ラル、此ニ依テ越府ヨリ妻女等当年ノウチ参着致サスヘキ旨 直江兼続公命ヲ申傳フ」
- ^ 『上杉家御年譜3』千坂景親からの注進(抜粋)
- P152 慶長3年(1598年)4月20日 秀吉発病・五大老「豊臣秀吉が発病、心神煩労して祈療効果なし。数箇条の掟が出る。(大名、旗本の私的婚姻禁止、天下の政事は大小となく五大老が決めること)」
- P153 慶長3年(1598年)5月16日 秀頼への忠心求める「五奉行も出座して秀吉の命を言説=在京の諸将ならびに旗本の諸士に対して、豊臣秀頼公に奉仕して、不忠変心あるべからず旨、起請文を以って伝達。」
- P153 慶長3年(1598年)7月15日 秀頼を補佐しろ、政務は家康に 「大阪より小出吉政、片桐直盛を伏見城に召し、秀吉の命として、末期近きにあり、汝等旧好を忘れず、忠節を励まして豊臣秀頼を補佐せよ。天下の政務は徳川家康を頼むべき」
- P158 慶長3年(1598年)10月2日 秀吉死去 「豊臣秀吉の病痾祈療その効なく、8月18日薨去したまう。遺命によりて穏便の由なり。」
- P159 慶長3年(1598年)10月 朝鮮撤兵 「徳川家康は豊臣秀吉の遺命によって、京、伏見、大阪、堺ならびに諸国の政務、前々のごとく守り違失あるべからず仰せ付けらる。浅野長政、石田三成に命じ、秀吉御遺言の通り、両氏は筑紫に下向して、朝鮮在陣の兵士を帰朝ささしむべし・・・。」
- P176 慶長4年(1599年)10月3日 前田利長誅罰「徳川家康が大阪、伏見在留の諸大名を西の丸に召集して、前田利長を誅罰すると述べた。」
- P180 慶長5年(1600年)1月中旬 上杉謀叛疑い「公(上杉景勝)が昨年9月に帰国して以来、陰謀を企て会津に引き籠り、越後は譜代相伝の国なれば、浪々の諸士ならびに百姓らを語らい一揆を起こさせ、その上、諸口の境通路を切り開き、特に諸士兵具を用意致すの由 近国より讒口を構へ 羽檄を飛ばし徳川家康に告ぐるのよしなり・・」
- P183 慶長5年(1600年)4月 上杉謀叛疑い「大阪にては公(上杉景勝)後下国の後、陰謀を企てある由、近国の讒士しきりに注進すれば、徳川家康よりも、近日御家人を差し下され 糾明を遂げられるべきに評定を定めた。」
- P192 慶長5年(1600年)6月2日 上杉討伐「徳川家康は諸大名を伏見城に召集し、上杉景勝は所領会津に籠居し、謀叛を企て近境を犯し掠むるの由 その沙汰穏便ならざるに付き その返答分明ならず。 此れに依りて、今度、家康馳向わんといえども、奉行人の方より押し留まるに付、しばらく猶予する所に、奥州、野州、越州の早馳来て、上杉景勝陰謀顕然たる由告げしらす。 此れによりて近日急ぎ発向せしむ・・・」
- P195 慶長5年(1600年)6月中旬 上杉討伐出兵「徳川家康、諸将を集め、会津発向を催し、軍議ありて所々攻口の大将を定めらる。 近日、大阪を進発あるべき由・・」
- P225 慶長6年(1601年)正月中旬 上杉藩処分「大阪西丸に於いて、徳川家康、在洛の諸将を会集ありて宣うは上杉景勝事評定如何あるべし、列座の結城秀康、出現して云う 景勝謀逆の実否分明ならず、且つまた、今般徳川家康に対し 叛逆の諸将目前に有るといえども、皆軍門に降し武名の恥をそそがんと思い旗下に属する諸将その数最も多し、しかるに皆、恩許を得たり、今、上杉景勝逆心たとえ實儀たりとも、代々武功の名家と云い、特に太閤以来の筋目変せず、忠心も又多し、然る時は上杉景勝か秩禄を減し赦したまはば・・なかんずく豊光寺 西笑承兌長老は兼ねて会津に内通ゆえ、腹心を開き重ねてとりなし有りしかば、徳川家康、徳川秀忠も承引を賜いて、景勝に対面のうえ仰せ出さるべきと議定す。西笑承兌長老、羽檄を以って委細、会津に申し遣わし、早速、上洛したまうべしと直江兼続まで申送らる。伏見留守居千坂景親も毎度大阪伏見の事を言上す。」
- ^ 「雲祥院〔妙心寺〕 - 京都風光」
- ^ 「妙心寺史」川上孤山 妙心寺派教務本所出版 大正6-10
- ^ [1]『米沢市HP』「城下町ぶらり歴史探訪・那須与一供養塔」
- ^ 『 上杉将士書上』には「千坂対馬守清胤は上杉家代々の四家老の一人なり。分別工夫ありて、弁才見事なり。仁体よく候。倅二人。嫡子は病者にて、用立ち申さず。二男は相性愚にして、遂に家門断絶する所にて候を、古き家なる故、直江山城守兼続才覚にて、千坂が家人満願寺仙右衛門といふ者を取立て、家督を継がせ、千坂伊豆守といふ。元和の末、寛永の初、松平伊豆守信綱執権の時、名を改め、千坂対馬になる。」とある。
- ^ 『笹神村史』通史編・資料編1
- ^ 大佛次郎の小説『赤穂浪士』の影響で、赤穂事件との関わりが書かれることがあるが、実際には事件以前に死去している。
- ^ 養子等による家督相続も挟まれている為、直系男子の血縁では無い。
出典
[編集]- 『笹神村史 通史編』(2004年)
- 『笹神村史 資料編1 原始・古代・中世』(2004年)
- 『笹神村史 資料編1 原始・古代・中世』(2004年)
- 『上杉家御年譜2』上杉温故会
- 『上杉家御年譜3』上杉温故会
関連作品
[編集]- 小説
- 『城を守る者』山本周五郎(『疾風怒涛!上杉戦記』(PHP文庫、2008年)などに収録)