北野吉内
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北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である[1][2]。旧姓は佐藤[2]。
経歴・人物
[編集]山形県に生まれ[1][2]、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し[1][2]、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する[2]。その後は萬朝報に転勤し[2]、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した[2]。同年末には東京朝日新聞に転勤し[1][2]、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した[2]。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり[1][2]、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった[2]。
同年帰国する際には8月にドイツの飛行船である「LZ 127」(ツェッペリン号)が日本に来港したことによって[2]、その飛行船に搭乗し報道にあたる[1][2]。その後は大阪朝日新聞社会部長や東京朝日新聞社会部長[2]、整理部長および論説委員[2]、編集局次長[2]、大阪朝日新聞編集局次長および記事審査部長を歴任した[2]。1940年(昭和15年)には取締役に就任し[2]、1942年(昭和17年)の東京編集総務を経て翌年には編集副総長[1][2]、1945年(昭和20年)には同年11月の退社まで総合計画室主幹も歴任する[2]。1948年(昭和23年)には公職追放を受けるが[2]、3年後の1951年(昭和26年)に解除された[2]。これにより翌年に朝日イブニングニュースの東京版顧問を経て[2]、1954年(昭和29年)に同紙の取締役を務めた[2]。