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北畠利顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北畠 利顕
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正7年7月4日1579年7月27日
別名 形部、水木形部、溝城形部
主君 浪岡氏津軽為信
弘前藩
氏族 浪岡氏
父母 父:北畠顕重
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北畠 利顕(きたばたけ としあき)は、戦国時代武士

事績

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陸奥の名族、浪岡氏の別家川原御所北畠顕重の嫡男として生まれる。祖父北畠具信は、所領問題から永禄5年(1562年)宗家浪岡氏当主浪岡具運を殺害し(川原御所の乱)、その結果具運の弟浪岡顕範に居館の川原館を攻められ、殺害された。残党は水木館に籠るも落城し、利顕は大浦氏の元へ逃れて家臣となった。宗家浪岡氏滅亡後の天正7年(1579年)7月4日、比山六郎比山七郎、浪岡氏一族の北畠顕則滝本重行らが津軽へ来襲し、六羽川合戦が発生し、大浦氏方として戦い、討ち死にした。

参考文献

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  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社