北村湖春
表示
北村 湖春(きたむら こしゅん、慶安3年(1650年) - 元禄10年1月15日(1697年2月6日))は、江戸時代前期から中期にかけての歌人・俳人、北村季吟の子。名は季順。
生涯
[編集]北村家は近江国野洲郡祇王村字北(現滋賀県野洲市)を本願とし、代々医者であった。湖春の父季吟は寛永元年(1624年)に祇王村で生まれ当初は医を生業としていたが、俳諧に関心を持ち、寛永19年(1642年)京の松永貞徳に弟子入りし俳諧を学んだ[1]。
湖春は、父季吟が貞徳門下にいた慶安3年(1650年)に京都で生まれた[2](「日本人名大辞典」(講談社)では慶安元年(1648年)生まれとする)。三男六女の嫡子で通称を久太郎(または休太郎)と称した[3]。長じて父季吟に師事し俳諧・詩を学び、万治2年(1659年)には早くも季吟が主宰する古今伝授饗宴の俳諧に出座し、20歳のとき父の命で句集「続山井」を編集、以後季吟俳壇の実務をとり著作刊行の補佐を行った[4]。
寛文12年(1672年)幕府に召しだされ父季吟と共に江戸に下る[2]。その後父と共に祇王村に戻る。父季吟が京新玉津島社の神官となる天和年間(1681年-1684年)以降、湖春は近江に留まり俳諧堂を主宰した[4]。元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され[2]、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す[5]。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る[3]。以降、代々北村家が幕府歌学方を差配するが、湖春は元禄10年1月15日(1697年2月6日)父に先立ち死去し、上野下谷の感応寺に葬られる[3]。蕉門内では俳諧の風潮は父季吟より優れると評された[5]。
著作
[編集]- 著作
- 「源語忍草」源氏物語注釈書
- 句集「続山井」湖春撰
- 代表作(句)
- あめつちの はなしとだゆる 時雨哉
- こねりをも へらして植し 柳かな
- 枝長く 伐らぬ習を 椿かな
- 牡丹すく 人もや花見 とはさくら
- 棹の歌 はやうら涼し めじか舟
- 名月や 見つめても居ぬ 夜一よさ
- てしがなと 朝貌ははす 柳哉
- 行年よ 京へとならば 状ひとつ
- 我駒の 沓あらためん 橋の霜
- はづかしや 蓮に見られて ゐぬ心
家族
[編集]- 父:北村季吟
- 弟:北村正立
- 弟:菊次郎(早逝)
- 妹(乙部氏に嫁ぐ)
- 妹(岸本氏に嫁ぐ)
- 妹(池上氏に嫁ぐ)
- 長女
- 長男:北村湖元
- 次女(幸田氏に嫁ぐ)
- 次男:勘三郎(早逝)