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勝田竹翁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

勝田 竹翁(かつた ちくおう、生没年不詳[1])は、江戸時代前期の狩野派の絵師。

伝記

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名は貞信。他に士貞、定(貞)則、陽渓(養景)、沖之丞(隠岐之丞)と称した。竹翁は号で、翠竹庵の別号がある。

三河国加茂郡郷士勝田平左衛門の子。慶長13年(1613年)に切米200表20人扶持を受ける。8歳の時に土井利勝に召され2代将軍徳川秀忠の側禿となる。絵を良くしたことから狩野長信に師事し、寛永7年(1630年)4月には3代将軍徳川家光の御部屋絵師となった。側禿や御部屋絵師といった役職の実態は不明だが、将軍と身近なやや特殊な身分と想像される。正保2年(1645年米沢藩からの依頼で国絵図を制作・完成させ、手当金として南鐐10枚を下賜され、制作を手伝った202名にも金子が与えられた(『上杉家御年譜』[2])。

明暦元年(1655年)4代将軍徳川家綱の将軍就任祝賀のため、来朝した朝鮮通信使へ贈る屏風20双のうち5双を描く。この時の贈朝屏風は、狩野探幽ら竹翁含め8名が担当しているが、担当数が5双というのは抜きん出て多い。『徳川実紀寛文6年(1666年)正月六日の御絵始めを探幽、狩野安信兄弟と共に3人で勤め、安信と同価の時服を与えられている。こうした伝歴から総合すると、秀忠、家光、家綱の3代に渡って活躍し、特に1650年代以降は画壇の重鎮だったと言えよう。その後は貞享4年(1687年)以前に没したとされる。

子に狩野貞寛(左兵衛)と狩野一渓(重良)の養子となり表絵師・根岸御行松狩野家を継いだ狩野良信がいる。しかし、貞寛は早世したと言われ、竹翁の直系は絵師として存続しなかった。

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm、本図のみ) 所有者 年代 款記 印章 備考
三芳野天神縁起絵巻 紙本著色 1巻9段 36.0x1651.0 三芳野神社 寛永5年(1629年)か 埼玉県指定文化財。詞書林羅山 松平信綱奉納
曾我物語絵巻 紙本著色 2巻 1巻:36.0x2096.9・2巻:36.0x2721.5 ボストン美術館 1660年万治3年) 1巻:「萬治庚子孟秋日 勝田陽溪圖之」・2巻:「萬治庚子初秋日 勝田陽溪画之」 「翠菴之印」朱文長方印(各)
観馬図屏風 紙本著色 六曲一双 142.4x365.4(各) 細見美術館 1660年(万治3年)前後か 「貞寛」朱文袋形印
孔子・顔子・曽子像 絹本著色 3幅 107.5x40.9(各) 東京国立博物館 1661年(万治4年) 中幅「勝田陽溪竹翁謹圖寫」・右幅「奉納先聖先賢像 竹翁筆」・左幅「萬治辛丑孟春壬申 竹翁笔」 「陽谿圖畫印」朱文円内方印・「竹翁」朱文方印(各)
宇治川先陣図屏風 紙本金地着色 六曲一隻 171.0×426.6 東京芸術大学大学美術館 「竹翁筆」 「竹翁図画」朱文方印 比較的初期の作
神農図 紙本墨画 1幅 88.5x35.3 東京芸術大学大学美術館 1673年(延宝元年) 「竹翁圖之」 「貞寛」朱文袋形印 木庵性瑫
老松鷹図 絹本著色 1幅 94.5x32.2 千葉市美術館 谷信一コレクション
陶淵明 紙本淡彩 1幅 41.5x72.4 天桂院(愛知県 「翠菴竹翁」 「翠菴」朱文方印・「貞寛」朱文袋形印
禽鳥図屏風 紙本著色 六曲一双 161.2x350.4 ケルン東洋美術館 右隻:「竹翁圖」・左隻「竹翁筆」 「翠菴之印」朱文長方印(各)

脚注

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  1. ^ 勝田竹翁』 - コトバンク
  2. ^ 中村(2019)p.28

参考資料

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  • 門脇むつみ 「勝田竹翁筆「観馬図屏風」について ─徳川家綱との関わりから」、河野元昭先生退官記念論文集編集委員会 『美術史家、大いに笑う 河野元昭先生のための日本美術史論集』 所収、ブリュッケ、2006年、ISBN 978-4-43407750-0
  • 中村玲 「表絵師・勝田竹翁の御用について―《孔子・顔子・曽子像》と共箱からみる制作活動―」、『実践女子大学 美學美術史學』第31号、2017年3月5日、pp.47-64
  • 中村玲 「勝田竹翁の画業と款印に関する考察」『実践女子大学美學美術史學』第33号、2019年3月5日、pp.27-42