勝持寺
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勝持寺 | |
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阿弥陀堂 | |
所在地 | 京都市西京区大原野南春日町1194 |
位置 | 北緯34度57分38.5秒 東経135度39分6秒 / 北緯34.960694度 東経135.65167度座標: 北緯34度57分38.5秒 東経135度39分6秒 / 北緯34.960694度 東経135.65167度 |
山号 | 小塩山 |
院号 | 大原院(だいげんいん) |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来(重要文化財) |
創建年 | 伝・天武天皇8年(679年) |
開基 | 伝・役行者 |
中興年 | 伝・延暦10年(791年) |
中興 | 伝・最澄 |
正式名 |
小塩山大原院勝持寺 (歴史的・非略体)小鹽山大原院勝持寺 |
別称 | 花の寺 |
札所等 |
西国薬師四十九霊場第42番 通称寺の会(花の寺) |
文化財 | 木造薬師如来坐像、木造薬師如来坐像(胎内仏)、木造金剛力士立像、大原野千句連歌懐紙(金銀泥下絵科紙)11帖(重要文化財) |
公式サイト | 天台宗 勝持寺 花の寺 公式ホームページ |
法人番号 | 6130005001900 |
勝持寺(しょうじじ)は、京都市西京区大原野南春日町にある天台宗の寺院[1]。山号は小塩山。本尊は薬師如来。
京都の西南郊外の大原野に位置しており、桜と紅葉の名所である。中世には境内の花木の保護の徴証がみられ、花の寺(はなのてら)と呼ばれている[1]。西国薬師四十九霊場第42番札所。大原野神社に隣接する。西行ゆかりの寺として知られる。
歴史
[編集]天武天皇8年(白鳳8年、679年)に天武天皇の勅によって役小角(神変大菩薩)が創建したと伝えられる[2]。その後、延暦3年(784年)に大原野神社が創建されると、勝持寺は大原野神社の別当寺とされた。
延暦10年(791年)に桓武天皇の勅により最澄(伝教大師)が堂塔伽羅を再建し、薬師瑠璃光如来を刻んで本尊とした[2]。さらに承和5年(838年)に仁明天皇の勅によって塔頭49院が建立された[2]。
保延6年(1140年)10月、佐藤義清が当寺で出家し、西行となっている。
しかし、応仁の乱で仁王門を残して焼失した[2]。その後、天正年間(1573年 - 1592年)に再建された。江戸時代には将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の帰依を受けている。
明治時代になり神仏分離が行われると、当寺と大原野神社の関係も解消された。
境内
[編集]- 阿弥陀堂 - 本堂。
- 瑠璃光殿 - 宝物館。飾られている醍醐天皇の勅額「勝持寺」は小野道風の筆で、延長5年(927年)のもの。
- 書院(庫裏)
- 十三重石塔
- 東門(長屋門)
- 不動堂
- 石不動尊 - 空海が刻んだものだという。不動堂の裏にある洞窟にある。
- 鏡石 - 西行が鏡の代わりに使ったとされる。
- 瀬和井の泉 - 西行が髪を剃った後にこの泉で自らの出家した姿を見たという。
- 鐘楼堂
- 西行桜 - この桜の横に西行の庵があったという。現在の桜は3代目である。
- 九重石塔
- 庭園 - 池がある。
- 桜ヶ丘
- 冴野の沼 - 歌枕として知られる。
- 山門(南門)
- 仁王門 - 当寺最古の建造物。
文化財
[編集]重要文化財
[編集]- 木造薬師如来坐像 - 当寺の本尊。像高85cm。鎌倉時代。左手に薬壺を持ち、右手をその上にかざすような珍しい印相を示す。
- 木造薬師如来坐像 - 本尊の胎内より発見された胎内仏。像高9.1cmの小像だが、光背には七仏薬師と十二神将像を表す精緻な作である。平安時代前期。
- 木造金剛力士立像 - 弘安8年(1285年)、法眼慶秀と法橋湛□(1字不明、康か)の作の銘がある。
- 大原野千句連歌懐紙(金銀泥下絵科紙)11帖 元亀二年二月細川藤孝筆(1571年)
前後の札所
[編集]所在地
[編集]- 京都市西京区大原野南春日町1194
周辺
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “【西京区の文書 解説】”. 京都市. 2023年11月30日閲覧。
- ^ a b c d “「これまで これから」— ありがとう沓掛 —”. 京都市立芸術大学美術教育研究会. 2023年11月30日閲覧。