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勝俣敏男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 勝俣 敏男 
Toshio KATSUMATA
基本情報
名前 勝俣 敏男
生年月日 (1934-08-26) 1934年8月26日(90歳)
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県
経歴
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勝俣 敏男(かつまた としお、1934年8月26日 - )は、神奈川県出身のプロゴルファー

来歴

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1955年にプロ入りし[1]1959年には約1年間、橘田規と共にアメリカテキサス州へゴルフ留学する[2] [3]。留学の手引きをしたのは、前年の1958年読売プロに招待されて来日したケン・ベンチュリージャック・バーク・ジュニアの二人で、留学の費用を両者が負担[2]日本のプロゴルフ界にとっては画期的なことで、当時、羽田空港から飛び立ったが、先輩プロの中村寅吉小野光一らプロ界の大御所が見送った[2]

1960年の第1回中日クラウンズでは初日の第2ラウンドで小針春芳・中村のベテラン勢と共に通算1アンダーに浮上し首位タイとなるが、最終的には中村・小野・橘田・小針・林由郎栗原甲子男に次ぐ7位[4]に入った。

1961年には第2回中日クラウンズで加藤辰芳と並んでの10位タイ[5]に入り、九州で戦後初めて開催された日本プロでは生憎のでスタートが1時間遅れ、グリーンの所々に水溜りが出来るという悪コンディションの中、棚網良平と並んでの2位タイ[6]でスタートする。

1962年には1月に男児が誕生し、第1回アジアサーキットに参戦[7]フィリピンオープン開会式では各国の国歌吹奏もあり、君が代を聞いた時は感激[7]シンガポールオープンでは3日目に67のベストスコアで中村と並ぶ6位に浮上し、最終日には5位に食い込んだ[7]。帰国後の日本オープンでは杉原輝雄陳清波中華民国の旗 中華民国)・橘田・小針に次ぐと同時に石井迪夫今井昌雪と並ぶ6位タイ[8]に入る。

脚注

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  1. ^ 勝俣 敏男 カツマタ トシオ TOSHIO KATSUMATA
  2. ^ a b c 東西ゴルフ事情-ゴルフ歴史館-情
  3. ^ 福島靖の取材メモ・写真にみる日本のゴルフ史
  4. ^ 王者が刻んだ栄光の第一歩
  5. ^ ムーディーを退けた理論家石井朝夫の執念
  6. ^ 第29回日本プロゴルフ選手権(1961年)
  7. ^ a b c 【日本男子の海外挑戦記・昭和編⑯】極東サーキット開幕、日本代表が上位をにぎわす
  8. ^ 第27回日本オープンゴルフ選手権(1962年)

外部リンク

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