助川静二
助川 静二 | |
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生誕 |
1885年10月10日 日本 北海道 |
死没 | 1974年9月10日(88歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1907年 - 1939年 1944年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
助川 静二(すけがわ せいじ、1885年(明治18年)10月10日[1] - 1974年(昭和49年)9月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍司政長官。最終階級は陸軍少将。旧姓は水原[1]。功四級[2]。
経歴
[編集]1885年(明治18年)に北海道で生まれた[1]。陸軍士官学校第19期卒業[1]。1924年(大正13年)8月に陸軍歩兵少佐[3]、1930年(昭和5年)3月に陸軍歩兵中佐に進級し[3]、同時に歩兵第27連隊附となった[3]。1932年(昭和7年)3月に第7師団副官に転じた[4]。1935年(昭和10年)1月22日に台湾軍高級副官に就任し[2]、3月15日に陸軍歩兵大佐に進級した[2]。1937年(昭和12年)3月に歩兵第38連隊長(北支那方面軍のちに中支那方面軍・第2軍のちに上海派遣軍・第16師団・歩兵第30旅団)に転じた[1][2]。日中戦争が勃発すると北支に出動し[1]、保定会戦に参加した[1]。その後中支に転戦し[1]、南京攻略戦で戦果を挙げた[1]。
1938年(昭和13年)7月15日に陸軍少将進級と同時に留守第16師団司令部附となり[1][2]、1939年(昭和14年)3月9日に待命[2]、3月22日に予備役に編入された[1]。1942年(昭和17年)3月に陸軍司政長官となり、ケダー州長官に就任した[5]。1943年(昭和18年)10月に同州がタイに編入されると[5]、10月18日に州長官を辞任した[5]。1944年(昭和19年)8月22日に召集され神戸連隊区司令官に就任し[1]、1945年(昭和20年)3月31日に釧路連隊区司令官兼釧路地区司令官に転じて終戦を迎えた[6]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典 : 1868-2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 4130301217。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。