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加藤重正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤 重正(かとう しげまさ、天正3年〈1575年〉 - 正保2年6月22日1645年8月13日〉)は、江戸時代前期の武士。旗本。通称は勘助。徳川家康徳川秀忠徳川家光に仕えた。父は加藤重常。子に娘(大森好長の妻)、養子に加藤重長大森好長の二男)、加藤正利がいる。兄弟に、加藤正光加藤重勝加藤忠重がおり、分家している。

生涯

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加藤勘助重正は、馬術家として知られる。流祖上田重秀(馬術家)より上田流馬術を伝授された。天正5年(1577年)より徳川家康元和2年〈1616年〉より2代将軍徳川秀忠に仕え、知行400石を賜る。重正は徳川秀忠に馬上太刀打ちのことを言上して御馬を預けられ、有名になった(これについては、3代将軍徳川家光にに言上したという別の記述もある[1])。元和9年〈1623年〉、秀忠が上洛したとき、供奉した。秀忠死後、寛永10年〈1633年〉、銕炮(鉄砲)同心30人を預けられ、布衣を着用することを許された。寛永11年〈1634年〉、新恩500石を賜り、甲斐国武蔵国にあわせて知行900石となる。正保2年(1645年)6月22日に死去。享年71歳。小石川小日向台町清巌寺に葬られた。その後、清巌寺は代々加藤家の葬地となり、これをもって重正を開基としたという。

なお、清巌寺は、大正11年(1922年)、東京市都市計画道路拡張のため、市外西巣鴨町字庚申塚(現在の豊島区西巣鴨4丁目)に移転している。現在の清巌寺に重正の戒名を刻した石塔が現存する。「清巌寺一便宗見大居士」と読める。福生市にある清岩院(清巌院)にも、中興開基として、加藤勘助重正の法名「清巌院殿一便宗見大居士」が伝わる[2]

脚注

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  1. ^ 上田流”. コトバンク (株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETING. 2020年5月13日閲覧。
  2. ^ 清岩院”. 猫の足あと 多摩地区寺社案内. 2020年5月31日閲覧。

参考文献

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