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加藤邦男 (陸軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤 邦男(かとう くにお、1893年明治26年)3月15日[1][2] - 1951年昭和46年)1月27日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・田能村[1]

経歴

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東京府出身[1][2][3]。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第18大隊付となる[1][4]。1922年(大正11年)12月、工兵大尉に昇進し、1925年(大正14年)2月、所沢陸軍飛行学校教官に就任[1]。同年5月、兵科航空兵に転科し航空兵大尉となる[1]

1929年(昭和4年)3月、航空兵少佐に進み、1930年(昭和5年)8月、飛行第1連隊材料廠長に就任[1]。飛行第1連隊付を経て、1934年(昭和9年)3月、陸軍航空本部員となり、1936年(昭和11年)3月、航空兵中佐に昇進[1]。同年8月、航空本部フランス駐在監督官に転じ、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に進んだ[1][3]

1939年6月、陸軍航空技術研究所員に就任し、陸軍航空整備学校第2教育隊長、航空兵団兵器部長、第2航空軍兵器部長を務め、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進級した[1][2][3]。同年5月に待命となり、同年6月、予備役に編入[1][2][3]。同年8月、召集され航空本部付となる[1][2][3]。同年9月、航空輸送部長に就任し、第5飛行場司令官を経て、1944年(昭和19年)5月、馬尼刺陸軍航空廠長兼第5飛行場司令官となり、同年9月に召集解除となり帰国した[1][2][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』214頁では昭和45年。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、43頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』214頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』359頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』348、359頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。