加納孝
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名前 | ||||||
カタカナ | カノウ タカシ | |||||
ラテン文字 | KANO Takashi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 |
1920年10月31日[1] 大日本帝国, 東京都 | |||||
没年月日 |
2000年6月4日(79歳没) 日本, 東京都大田区 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
東京府立第八中学校 | ||||||
1939-1945 | 早稲田大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
早大WMW | ||||||
東京クラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1942-1954 | 日本 | 7 | (2) | |||
監督歴 | ||||||
1947-1950 | 早稲田大学 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
加納 孝(かのう たかし、1920年10月31日 - 2000年6月4日)は東京都出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(左ウイング)。
経歴
[編集]左足のボールテクニックとスピードを生かしたドリブル突破が持ち味のウインガー。戦前、戦後を通じて日本代表として活躍し、インナー(現在の攻撃的MF)の岩谷俊夫とは名コンビとして知られた。
東京府立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)時代の1937年1月に開催された第18回全国中等学校蹴球選手権大会に出場。卒業後は早稲田大学理工学部へ進学しア式蹴球部に所属。早大WMW(現役選手とOBからなる混成チーム)の一員として1940年の全日本蹴球選手権大會 (第20回天皇杯全日本サッカー選手権大会)の準優勝に貢献した。第二次世界大戦には東泉製作所に勤務する傍ら、1947年から1950年まで早稲田大学の監督を務めた。
また1955年に松永碩、岩淵功らと共に東京クラブに加入。同年の第1回都市対抗選手権優勝、翌1956年も大会連覇に貢献した。
日本代表としては1942年の8月の東亜競技大会で代表デビューを飾るが、第二次世界大戦の影響により、選手キャリアを中断した。戦後1951年に日本の国際舞台の復帰が認められると代表復帰を果たし、同年にインドで開催された第1回アジア競技大会に出場。その後も1954年の第1回アジア競技大会、1954 FIFAワールドカップ・予選に出場するなど国際Aマッチ7試合出場し2得点を記録した。
2000年6月4日、東京都大田区で心不全により死去した[2]
所属クラブ
[編集]代表歴
[編集]出場大会
[編集]- アジア競技大会(1951、1954)
- 1954 FIFAワールドカップ・予選
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 7試合 2得点(1951-1954)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1942 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
1943 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1944 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1945 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1946 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1947 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1948 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1949 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1950 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1951 | 3 | 0 | 6 | 0 | 9 | 0 |
1952 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 |
1953 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 |
1954 | 4 | 2 | 0 | 0 | 4 | 2 |
通算 | 7 | 2 | 12 | 1 | 19 | 3 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1951年03月07日 | ニューデリー | イラン | △0-0(延長) | 二宮洋一 | アジア大会 | |
2. | 1951年03月08日 | ニューデリー | イラン | ●2-3 | アジア大会 | ||
3. | 1951年03月09日 | ニューデリー | アフガニスタン | ○2-0 | アジア大会 | ||
4. | 1954年03月07日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | ●1-5 | 竹腰重丸 | ワールドカップ予選 |
5. | 1954年03月14日 | 東京都 | 明治神宮外苑競技場 | 韓国 | △2-2 | ワールドカップ予選 | |
6. | 1954年05月01日 | マニラ | インドネシア | ●3-5 | アジア大会 | ||
7. | 1954年05月03日 | マニラ | インド | ●2-3 | アジア大会 |
得点数
[編集]# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1954年5月1日 | フィリピン、マニラ | インドネシア | 2-3 | 敗戦 | アジア競技大会 |
2 | 1954年5月3日 | インド | 3-5 | 敗戦 |
指導歴
[編集]- 1947年-1950年 早稲田大学
参考文献
[編集]脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 加納孝 - National-Football-Teams.com
- 加納孝 - WorldFootball.net
- 八中・小山台サッカーOB会WEBサイト
- “弾丸的”飛び込み戦中派レフティー 加納孝(下) - 賀川サッカーライブラリー