加瀬三郎
加瀬 三郎 | |
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生誕 |
1894年3月17日 日本 千葉県 |
死没 | 1944年12月21日(50歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1916年 - 1944年 |
最終階級 | 海軍少将 |
加瀬 三郎(かせ さぶろう、1894年(明治27年)3月17日[1] - 1944年(昭和19年)12月21日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階勲等は従四位勲三等[2]。
経歴
[編集]千葉県出身[1]。1916年(大正5年)12月、海軍兵学校第44期を卒業し[2]、1917年(大正6年)12月に海軍少尉に任官した[2]。1920年(大正9年)12月に海軍潜水学校普通科学生となり[2]、「第45潜水艦」「第41潜水艦」各乗組などを経て[3]、1925年(大正14年)12月に「呂号第23潜水艦」長に着任した[3]。その後、「襟裳」分隊長[3]、「龍田」水雷長兼分隊長などを経て[3]、1929年(昭和4年)11月30日に海軍少佐進級と同時に「桜」駆逐艦長兼「橘」駆逐艦長に就任した[3]。「望月」駆逐艦長[3]、「鳥羽」「熱海」各艦長などを歴任し[3]、1935年(昭和10年)11月に海軍中佐に進級に進級[3]。さらに「北上」副長[3]、海軍兵学校教官兼監事を経て[3]、1940年(昭和15年)11月に海軍大佐に進級した[3]。
1941年(昭和16年)4月に呉軍需部第1課長兼部員に就任し[3]、同年10月より兼呉軍需部総務課長となった[3]。1942年(昭和17年)3月に第2軍需部長に転じ[3]、1943年(昭和18年)6月に「五洲丸」艦長(第11航空艦隊[4])に就任して太平洋戦争に出征した[1][3]。1944年(昭和19年)6月10日に「北上」艦長となり[3]、8月29日に「間宮」特務艦長に就任[3]。12月21日に補給作戦としてサイゴンからフィリピンへ航行中[1]、南シナ海東沙島西方沖でアメリカ潜水艦「シーライオン」から魚雷攻撃を受け「間宮」は沈没し[1]、加瀬は戦死した[1][3]。同日任海軍少将[3]。
年譜
[編集]- 1916年(大正5年)11月22日 - 海軍兵学校卒業、八雲乗組[2]
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)12月1日 - 海軍水雷学校普通科学生[2]
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)12月1日 - 海軍潜水学校普通科学生[2]
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
- 1924年(大正13年)11月1日 - 呂号第23潜水艦乗組(艦名変更)[3]
- 1925年(大正14年)12月1日 - 呂号第23潜水艦長[3]
- 1926年(大正15年)11月15日 - 襟裳分隊長[3]
- 1927年(昭和2年)12月1日 - 利根運用長兼分隊長[3]
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年)12月1日 - 兼樺駆逐艦長兼桐駆逐艦長[3]
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- 1935年(昭和10年)
- 1937年(昭和12年)
- 1939年(昭和14年)3月1日 - 海軍兵学校教官兼監事[3]
- 1940年(昭和15年)11月15日 - 海軍大佐[3]
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)3月10日 - 第2軍需部長[3]
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X。
- 海軍歴史保存会 編集『日本海軍史 第9巻』海軍歴史保存会、1995年。
- 坂本正器、福川秀樹 編著『日本海軍編制事典』芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4829503300。