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劉賡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 賡(りゅう こう、1186年 - 1233年)は、に仕えた漢人文官の一人。字は熙載。洺州洺水県の人。

略歴

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1276年至元13年)に推薦を受けて国史院の編修官となり、以後監察御史などの職を歴任した。

1328年天暦元年)に81歳で亡くなった[1]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻174列伝61劉賡伝,「劉賡、字熙載、洺水人。五世祖逸、以郡吏治獄、有陰徳。祖粛、為左三部尚書。賡幼有文名、師事翰林学士王磐。至元十三年、用薦者授国史院編修官。十六年、遷応奉翰林文字。辟為司徒府長史、仍兼応奉。補外、同知徳州事、考満、擢太廟署丞・太常博士、拜監察御史。是時、御史中丞崔彧好盛気待人、他御史拜謁、或平受之、独見賡、則待以上客。大徳二年、升翰林直学士。六年、奉使宣撫陝西。由侍講学士升学士。至大二年、遷礼部尚書、仍兼翰林学士。尋拜侍御史。頃之、還翰林為学士承旨、兼国子祭酒。国学故事、伴読生以次出補吏、莫不争先出。時有一生、親老且貧、同舎生有名在前者、因博士以告曰『我歯頗少、請譲之先』。賡曰『譲、徳之恭也』。従其譲、別為書薦其人、朝廷反先用之。自是六館之士、皆知譲之為美徳也。皇慶元年、遷集賢大学士、仍兼国子祭酒。延祐元年、復為承旨。六年、拜太子賓客。七年、復入集賢為大学士、尋又入翰林為承旨。泰定元年、加光禄大夫。会集議上尊号、賡独抗言其不可、事遂已。天暦元年卒、年八十一。賡久典文翰、当時大製作多出其手、以耆年宿徳、為朝廷所推重云」

参考文献

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  • 元史』巻174列伝61劉賡伝