劉紀文
劉紀文 | |
---|---|
Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1890年10月19日 (清光緒16年9月初6日) |
死去: |
1957年(民国46年)4月12日 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス |
出身地: | 清広東省広州府東莞県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉紀文 |
簡体字: | 刘纪文 |
拼音: | Liú Jìwén |
ラテン字: | Liu Chi-wen |
和名表記: | りゅう きぶん |
発音転記: | リウ ジーウェン |
劉 紀文(りゅう きぶん)は中華民国(台湾)の政治家。中国国民党(国民政府)で主に財務・会計を担当した人物で、胡漢民・孫科ら広東派の一員でもあった。字は兆銘、兆鎔。
事跡
[編集]清末民初の活動
[編集]1910年(宣統2年)、広州起義に参加し、同年に中国同盟会に加入した。1912年(民国元年)、日本に留学し、1914年に中華革命党が成立すると、総務部幹事を務めた。同年、早稲田大学に入学し[1]、1917年に卒業している。
帰国後は上海で中華革命党事務所で財務を担当し、同年9月、広東軍政府財政部検事、広東省金庫監理、広州市審計処処長などを務めた。1920年(民国9年)、陸軍部軍需司司長となり、1923年(民国11年)3月、広東大本営審計局局長兼金庫長となった。その後、大本営軍需処処長に転じ、さらに欧州へ経済状況の視察に赴き、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス[2]で2年、ケンブリッジ大学で1年、それぞれ経済学を研究している。
広州国民政府への参加
[編集]1926年に帰国し、7月、広東省政府委員兼農工庁庁長に任ぜられた。同年、国民革命軍総司令部軍需処処長に転じる。1927年(民国16年)5月、南京市長に抜擢されたが、同年8月に早くも辞任した。9月、蔣介石に随従して日本に赴き、11月に帰国している。1928年(民国17年)5月、国民革命軍経理処処長に任ぜられ、7月、南京市長に返り咲いた。同年中に軍事委員会軍医監理委員、営防設計委員、国民政府建設委員会員などを歴任している。
1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央執行委員、賑災委員会常務委員となる。同年6月に総理陵園管理委員会常務委員、7月に首都建設委員会秘書長となり、さらに年内には国民党総理奉安委員会布置組主任、国民党南京市党部執行委員兼常務委員を歴任した。南京特別市長には1930年(民国19年)4月まで在任し、その後、財政部江海関監督に転じている。
1931年(民国20年)2月、国民党元老で広東派の胡漢民が蔣介石に軟禁される事件が起きる。劉紀文は汪兆銘(汪精衛)・孫科・古応芬らに従い、反蔣の広州国民政府に参加、政務委員に任じられた。夏には、広州側の外交部長陳友仁と共に訪日し、外相幣原喜重郎と満州国問題や日中関係について会談している。その後、満州事変の勃発と共に各派大同団結がなり、12月、劉は国民党第4期中央執行委員、革命債務調査委員会委員となる。翌1932年(民国21年)には、広州市長に任命された。1934年(民国23年)、広州市党部執行委員兼常務委員となり、その翌年11月には第5期中央執行委員に再選された。
日中戦争以降
[編集]1937年(民国26年)2月、国民政府審計部政務次長に任ぜられる。日中戦争期間中は陪都建設計画委員、特種考試典試委員長なども歴任した。1945年(民国34年)5月、第6期中央執行委員に再選される。戦後は1947年冬に行憲国民大会代表に選出された。1949年(民国38年)、いったん日本に亡命したが、まもなく台湾に移り、総統府国策顧問に任ぜられている。1954年(民国43年)7月、光復大陸設計研究委員会委員となった。
1957年(民国46年)4月12日、カリフォルニア州ロサンゼルスにて病没。享年68(満66歳)。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- Who's Who in China 4th ed. The China Weekly Review (Shanghai) , 1931.
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
|
---|