劉攻芸
劉 攻芸 | |
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プロフィール | |
出生: |
1900年5月23日 (光緒26年4月25日) |
死去: |
1973年8月8日 シンガポール |
出身地: |
清 福建省福州府侯官県 (現:福州市) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 劉 攻芸 |
簡体字: | 刘 攻芸 |
拼音: | Liú Gōngyún |
ラテン字: | Liu Kung-yün |
和名表記: | りゅう こううん |
発音転記: | リウ ゴンユン |
劉 攻芸(りゅう こううん[1])は中華民国の政治家。旧名は駟業。
事跡
[編集]私立上海聖ヨハネ大学附属中学を卒業。1919年(民国8年)、アメリカに留学し、ペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学する。1922年(民国11年)、商学士の学位を取得した。続いてノースウェスタン大学に入学し、同時に銀行でも勤務している。1924年(民国13年)、やはり商学士の学位を取得した後に渡英し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学、ここでも銀行勤務を継続した。
1927年(民国16年)に博士学位を取得して帰国し、国立清華大学で経済学の講師となる。翌年、国立中央大学に転じ、銀行学を教授した。1929年(民国18年)、中国銀行総経理の張公権(張嘉璈)に招聘され、同行の業務に携わる。1935年(民国24年)8月、中央信託局局長に任ぜられ、数か月後に国民政府鉄道部財務委員会に異動した。1940年(民国29年)、四行聯合総弁事処秘書長となる。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央執行委員候補に選出された。
戦後に劉攻芸は中央信託局局長に復帰し、蘇浙皖区敵偽産業処理局局長も兼ねた。1947年(民国36年)3月、中央銀行総裁に昇進し、1949年(民国38年)1月には同行総裁となった。同年3月、徐堪の後任として財政部長に任ぜられる。しかし、すでに国共内戦の趨勢が定まっていた上に、4月には南京も陥落してしまったため、劉は財政における指導力をほとんど発揮できなかった。国民政府の貯蔵していた黄金を台湾に輸送する任務に従事した後、6月に辞任した(徐が後任として復帰)。
その後、劉攻芸は香港へ逃れ、1950年春にはシンガポールでシンガポール華僑銀行顧問、華僑保険公司董事経理などを歴任した。
1973年8月8日、シンガポールにて病没。享年74(満73歳)。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
注釈
[編集]- ^ この場合の「芸」の音は「ウン」となる。常用漢字表での「芸」は本来「藝」であったものが簡略化された際に「芸(ゲイ)」に変更された結果、本来別字として存在した「芸(ウン)」と同型衝突している。繁体字でも「芸」となる場合は後者と音を採用する。
中華民国
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