劉容
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劉 容(りゅう よう、生没年不詳)は、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えた将軍の一人。字は仲寛。
略歴
[編集]劉容の祖先は西夏領の青海に住まう一族で、劉容の高祖の劉阿華は西夏に仕えていた。劉容の父の劉海川の時代に西夏がモンゴル帝国に征服されたため、劉海川とその一族は雲京に移住し劉容もそこで育った。劉容は幼い頃から利発で読書を好み、騎射も得意ではあったがあまり好まなかった。その後、モンゴル帝国第4代皇帝モンケが亡くなってその弟のクビライが立つと、劉容は推薦を受けてクビライの皇太子チンキムに仕えるようになった[1]。
1278年(至元15年)、クビライの命を受けて江西方面に赴き、現地の民を撫慰した。その後、広平路総管などを歴任して52歳にして病で亡くなった[2]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻134列伝21劉容伝,「劉容字仲寛、其先西寧青海人。高祖阿華、西夏主尚食。西夏平、徙西寧民於雲京。容父海川、在徙中、後遂為雲京人。容幼穎悟、稍長、喜読書。其俗素尚武、容亦善騎射、然弗之好也。中統初、以国師薦、入侍皇太子於東宮、命専掌庫藏。毎退直、即詣国子祭酒許衡、衡亦与進之。至元七年、世祖駐蹕鎮海、聞容知吏事、召至、命権中書省掾。事畢復前職、以忠直称」
- ^ 『元史』巻134列伝21劉容伝,「十五年、奉旨使江西、撫慰新附之民。或勧其頗受送遺、帰賂権貴人、可立致栄寵、容曰『剥民以自利、吾心何安』。使還、惟載書籍数車、献之皇太子。忌嫉者従而讒之、由是稍疏容、然容亦終不辯。会立詹事院、容上言曰『太子天下本、苟不得端人正士左右輔翼之、使傾邪側媚之徒進、必有損令徳』。聞者是之。俄命為太子司議、改秘書監。未幾、出為広平路総管。富民有同姓争財産者、訟連年不決、容至、取籍考二人父祖名字、得其実、立断之、争者遂服。皇子雲南王至汴、其達魯花赤某欲厚斂、以通賄于王、容請自往、乃減其費。後以疾卒於官、年五十二」
参考文献
[編集]- 『元史』巻134列伝21劉容伝