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劉 俚(りゅう り)は、紀元前1世紀から紀元1世紀、古代中国の前漢時代の城陽王である。生没年不明。在位は永始元年(紀元前16年)から始建国2年(10年)まで。
父は城陽王の孝王劉景で、兄または弟に哀王劉雲がいた[1]。城陽国は父の後を嗣いだ劉雲が死んで鴻嘉3年(紀元前18年)にいったん廃絶した[2][3]。
成帝は、永始元年(紀元前16年)に劉俚を城陽王に封じた[4]。
王莽が漢を滅ぼして新を立ててから2年目の始建国2年(西暦10年)、劉俚は王を廃され公に格下げになった[5]。始建国3年(11年)にそれも廃された。
- ^ 『漢書』高五王伝には俚は雲の兄とあるが、。諸侯王表では弟である。
- ^ 『漢書』巻38、高五王伝第2。ちくま学芸文庫版『漢書』4、266頁。
- ^ 『漢書』巻14、諸侯王表第2。斉悼恵王肥以下。
- ^ 成帝が、とするのは『漢書』高五王伝。年を記すのは『漢書』諸侯王表で、もと「元始元年」だが『資治通鑑』により「元」を「永」に改める、と漢籍電子文献資料庫の校勘にある。元始元年は西暦元年で、成帝没後久しく、劉俚の治世の年数もあわない。
- ^ 『漢書』巻14、諸侯王表第2。王になってから「25年」とあることから計算した。次の始建国3年も同じである。