前田利行 (歯科医師)
表示
前田 利行(まえだ としゆき、1872年(明治5年)5月2日 - 1966年(昭和41年)9月)は、日本の歯科医師。
独学で樹木について学び、枯死寸前の樹木を蘇らせる技術を所持していたという。現在の樹医に近いことを行なっていた。戦後間もない頃、文部省が「後3年以内に枯死」と宣告していた淡墨桜を蘇らせた。
来歴・人物
[編集]高知県吾川郡弘岡上ノ村(現仁淀川町)出身。幼名は嘉吉。徳島市で内科医院、大阪市で歯科医院に住み込みで働き、1896年(明治29年)に歯科医師となる。
1900年(明治33年)、徳島県徳島市に「前田歯科」を開業。このころから趣味として盆栽(盆梅)を始める。樹木の知識を独自に学び、根を接木するなどの、古木の再生技術を築く。1934年(昭和9年)、岐阜県岐阜市に引っ越す。息子の前田洲が岐阜市内で医師をしていたからという。
1947年(昭和22年)、洲の友人の不破成隆(不破光治の子孫、産婦人科医師)から淡墨桜の再生への協力を依頼される。不破は洲から、利行の古木の再生技術を聞いていた。1949年(昭和24年)3月10日、利行は植木職人1名、大工3名の助手を引き連れて、岐阜県本巣郡根尾村(現本巣市)に到着。淡墨桜の再生へ挑む。利行は高齢であったため、看護師が1名同行していた。再生方法は、勢いが衰えていた淡墨桜の根(238本)を切り取り、そこに若いヤマザクラの根を接木するものであった。4月5日に処置が終わる。この約1ヶ月の事業には、村民73名も協力したという。この処置法により、1950年(昭和25年)に淡墨桜は復活する。