利用者:Yuukin0248/sandbox-Long-No.1
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歴史
[編集]この節では、本四架橋全体の歴史について説明する。詳しい内容は各橋・道路の記事も参照のこと。
実現できない計画
[編集]本四架橋が歴史上に初めて登場するのは、1889年(明治22年)5月23日のことである。商人・政治家の大久保じん之丞は、「本州と四国に橋を架ければ、風雨に影響されることなく移動できて、国も国民も利益を得る」という旨を説いた[1]。大久保が計画を想起した理由は定かではないが、6年前にニューヨークに支間長が486 mあるブルックリン橋が完成していることと[2]、同橋を見た軽業師が同橋の石版画を購入し、それを絵馬にして金之比羅寺に奉納していたことが影響していると野崎博文 2018, p. 18で言われている。このルートは、現在の瀬戸大橋のルートに当たる[1]。
1908年(明治41年)5月に第10回衆議院議員総選挙で徳島県から選出された中川虎之助は代議士として数ある建議案を出したが、中でも1914年の第31回帝国議会予算委員会に提出された「鳴門架橋および潮流利用発電調査に関する建議案」は本項での特筆に値する。建議理由を要約すれば、本州と四国の間に橋を架ければ風雨が強くても安全に行き来できる、鉄道が通れば九州との便も良くなる、というものである[注 1]。しかし、中川のこの提案は一地方の問題であるということ、急を要するもので無いという理由から否決された。中川は翌年の衆議院議員総選挙に立候補するも落選した[4]。
京都大学工科大学を卒業後、東京土木出張所の現場[注 2]や満州の新京国道建設所で所長を務めた技術屋の原口忠次郎は[5]、1939年に神戸土木出張所に所長として帰任した[6]。神戸土木出張所は兵庫県南部と四国四県の国土計画も所管していたため原口は四国によく出張したが、そこで原口は四国の開発が遅れていることに気がついた。豊富な水量を持つ川と十分な労働力のある四国の開発を発展させることで国家の経済に大きく寄与すると考えた原口は、鳴門海峡に橋を架けて四国と本州を直結する交通路を構想し、実際に鳴門海峡を視察した。そして、1940年(昭和15年)に原口は土木出張所会議で「鳴門海峡の構想」と題し、神戸と徳島の間を僅か2時間で結ぼうとする「本四架橋」の計画を発表した[6][7]。しかし、鳴門海峡に架けた橋が落ちると軍艦が通れなくなり国防上の問題になると帝国海軍の呉鎮守府から叱責を受け、計画は頓挫した[6]。
海難事故を機に建設機運上昇
[編集]1955年5月11日の早朝に、紫雲丸事故が発生した。四国の高松港から本州の宇野港へ向かう紫雲丸が霧により視界100 mの中、宇野港から高松港へ向かう貨物船の第三宇高丸に衝突、沈没し168人が死亡した事故である。この事故の他にも1945年にはせきれい丸沈没事故、第十東予丸沈没事故が、1946年には宮窪丸事故が発生していた中であったため、地域では紫雲丸事故を契機に瀬戸内海を安全に渡れる橋かトンネルへの機運が高まった[8]。鉄道では、紫雲丸事故以前から明石・鳴門ルートに須磨 - 鳴門間で建設予定路線となっていたが、事故を受け徳島県知事を会長とする「本土淡路四国直通鉄道促進期成同盟会」が結成され、国鉄は調査を開始した。また、広島県・愛媛県においても尾道・今治間で113人が死亡する第五北川丸沈没事故が発生した後、「中国四国連絡道路促進期成同盟会」が1957年に発足した[8]。
1949年に神戸市長となった原口が神戸市予算に明石架橋の調査費の350万円を計上したのは1957年のことである[6][8]。これに対し市議会や市民の中では「夢の架け橋」という言葉で表現されたが、これには賛成派と反対派の双方の気持ちが表現された。それは、反対派の「とりまとめのない与太話だ」というものと賛成派の「実現されるべき美しい計画」というもの(いずれも 野崎博文 2018, p. 30より引用)である。賛否両論ある中、その後も原口は毎年調査費を予算に計上し、明石海峡の調査を進めながら、自らも海外の長大橋の調査へ赴いた[6]。また、先述の通り1955年に国鉄は調査を開始したが、道路については建設省が1959年に初めて調査費を500万円計上した。その後、国鉄は建設省と協力して調査を進めることとなったため、1961年に架橋技術の調査を土木学会に委託した[9]。また、1962年に閣議決定された初代全国総合開発計画には、本四連絡ルートの調査促進が明記された[9][10]。
3ルートの着工争い
[編集]本州四国連絡橋を巡り架橋への機運が高まり、計画が進んでいく中、1966年3月に土木学会は支間長(スパン: 吊り橋においてはの主塔と主塔の間の距離)が1500 m級の吊り橋は上部構造については技術的に実現が可能で、水深およそ50 mで大きな潮流のもとでの深い海中基礎の技術は今後実現可能な方法を見出しうるとの中間報告をした[9]。
この頃には本州と四国を結ぶルートは3つ考えられていた。1つ目が明石 - 淡路島 - 鳴門のルート、2つ目が児島 - 坂出ルート、3つ目が尾道 - 今治ルートである。この3ルートのどれを最初に着工するかという議論があり、土木学会の調査結果の発表が待たれていた中、??年に1と2のルートについて調査結果を発表した。1つ目の明石 - 淡路島 - 鳴門ルートについては、世界に実例が無いほど難しい設計施工の条件があり技術的な問題があるとされたが、2つ目の児島 - 坂出ルートについては技術的な問題は少ないとされた[11]。
そんな中、本四架橋とは別に、徳島県では小鳴門海峡に隔てられた鳴門市と大毛島を結ぶ小鳴門橋の建設が計画されていた。小鳴門橋の架橋は本四架橋を促進し鳴門架橋の実現が近づくことことから、世論も大きく高まった。1959年11月に着工された小鳴門橋は全国でも例がなかった規模の潜函工法を活用し工事が進められ、1961年6月30日に開通式が行われた[12]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 野崎博文 2018, pp. 17–18.
- ^ 藤川寛之 2002, p. 1.
- ^ 野崎博文 2018, pp. 23–24.
- ^ 野崎博文 2018, pp. 19–24.
- ^ a b 野崎博文 2018, pp. 25–27.
- ^ a b c d e 野崎博文 2018, pp. 28–30.
- ^ 藤川寛之 2002, p. 2.
- ^ a b c 藤川寛之 2002, pp. 2–5.
- ^ a b c 藤川寛之 2002, pp. 5–6.
- ^ “全国総合開発計画” (PDF). 国土交通省. p. 24. 2019年5月2日閲覧。
- ^ 野崎博文 2018, pp. 36–38.
- ^ 野崎博文 2018, pp. 41–54.
参考文献
[編集]- 古谷信明『世界最大橋に挑む―明石海峡大橋を支えるテクノロジー』NTT出版、1995年6月10日。ISBN 978-487188-388-7。
- 藤川寛之『本州四国連絡橋のはなし―長大橋を架ける―』交通研究協会〈交通ブックス〉、2002年8月1日。ISBN 978-4425761111 。2019年5月1日閲覧。
- 野崎博文『本州と四国をつないだ”夢の架け橋”』文芸社、2018年3月15日。ISBN 978-4-286-19060-0。