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利用者:Xstamper/sandbox

スプリングフィールドM1861 ライフル・マスケット
エンフィールド銃 ライフル・マスケット

ライフルドマスケット、又は、ライフルマスケットは、 19世紀半ばに出現した小火器の一類型である。当初、この単語は滑腔銃として生産されたマスケット銃身に後からライフリングを施したものだけを意味していた。時代が下るにつれ、同様の設計の滑腔マスケットに代わり使用されるようになったライフル銃も意味するようになった。

歴史と発展

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19世紀初頭、ライフル銃マスケットの両方が共存していた。マスケットは前装式の滑腔銃で、鉛の弾丸や散弾を発射し、銃剣を取り付けられるように設計されていた。ライフル銃はフリントロックパーカッションロックによる発火機構を持つ点は同様であるが、大きな違いとして銃身にライフリングが施されていた。つまり、銃身の内部に溝が刻まれていて、発射される弾丸に回転をかけるようになっていた。

発射する弾丸に回転がかかることで、滑腔マスケットより低進し安定した弾道を描くため、ライフル銃には長距離での精度が高まる利点があった。マスケットは射撃速度で有利であった。前装式兵器は弾丸を銃身に適合させなければならなかった。滑腔銃では隙間がある程度あっても許容できるが、ライフル銃の場合、銃身に刻まれたらせん型の溝が、回転をかけるために弾丸に食い込む必要があった。弾丸に回転をかけるために、銃身が弾丸に十分密接するように隙間を設定しなくてはならない。そうでなければ、銃身から飛翔するにつれ弾丸の軌道は動揺し、精度が失われるからである。それに加え、弾丸と銃身の間の密着が不十分であれば、発射ガスがライフリングから漏れてしまい、銃口初速、精度、そして目標に与える終末エネルギーが損なわれてしまう。 精度と射程が優れているため、ライフル銃は狩猟目的には理想的といえたが、発射速度が遅いために、軍事用として広く使うには大きな障害となっていた。それに加え、通常の発射で生じる残渣が、ライフル銃の装填を次第に困難なものとしていた。

滑腔マスケットは戦列歩兵と軽歩兵の主力兵器として用いられ、ライフル銃は狙撃兵やその他特殊な兵科に限って使われていた。マスケットはすべて銃剣が装備されており、白兵戦でもマスケットで戦うことができた。その時代、ロシアやフランスはレンジャーやヴォルティジュールと呼ばれる軽歩兵を頻用し、不整地での長期戦では、時に歩兵大隊すべてを散兵として分散し運用していた[1]。ライフルは滑腔マスケットよりも射撃精度は高かったが、有効射程は同等であった。たとえば、イギリス軍では制式装備のマスケットを装備した軽歩兵は、交戦距離300-400ヤードを想定して訓練されていた[2]。 マスケットは槍として使われることもあったため、マスケットはかなり長く、重量ある兵器となる傾向があった。長さはおよそ4-6フィート(銃剣を含めると6-8フィート)、重さはおよそ10-12ポンド(4.5-5.4kg)であった。というのもこれ以上長く、重い兵器は余りにも扱い辛くなったからである[3] 。マスケットの長さが、戦列を組んで射撃することを可能にし、後列の歩兵が前列の歩兵の後頭部を誤射したり、発砲炎で顔面を焼いたり、鼓膜を破る危険性を最小限にした。6フィートのマスケットを使うと、3列の戦列でも安全に射撃することができた[4]

マスケットは比較的不正確で短射程ではあったが、戦場ではそれが重大な問題とは考えられていなかった。その時代の黒色火薬が発生する煙が戦場を不明瞭にしてしまい、ライフル銃の持つ長射程は無意味なものとなってしまった。特に戦況が進むとその傾向は強まった[5]

ライフル銃はマスケットよりも製造コストがかかり、普通は散兵選抜歩兵などの、近接しての戦闘ではなく、散開して戦闘する特別に訓練を受けた小規模のライフル兵によって使われた。ライフル銃は他の歩兵の肩越しに射撃することや、銃剣を用いた近接戦を想定していなかったので、軍用ライフル銃はマスケットよりもずっと短くすることができ、銃口からの装填を用意にし、銃身に合わせて装填する困難を軽減していたが、それでもなお滑腔マスケットよりも緩慢にしか射撃できなかった。

Various rifled musket projectiles

銃身に残渣が残るため、ライフル銃の装填が遅い問題は1840年代にフランスの発明家であるクロード=エティエンヌ・ミニエーが発明したミニエー弾が解決した。名前に反して、ミニエー弾(Minié ball)は全く球形ではなかった。それは弾丸の尾部に拡張する縁を持ち、長い円錐型であった。この縁があることで、ミニエー弾は銃口よりも小さくすることができ、滑腔銃と同じぐらい容易に弾丸を落とし込むことができた。発射されると、この縁が拡張し、銃身の内側に緊密に密着することで、弾丸周囲の漏れが原因のエネルギー損失を抑制し、ライフリングにめり込み、ミニエー弾に回転をかけ弾道を安定させる[6]

1940年代と1850年代に、滑腔マスケットの多くは射程と精度を大幅に高められる新型の弾丸を発射できる、ライフリングを持つ同口径のマスケットへ置き換えられた。これらの「ライフルド・マスケット」あるいは「ライフル・マスケット」は横隊や方陣の近接戦闘でマスケットが機能するように十分長く設計され、しかも装填速度は滑腔マスケットと同程度で、最小限の訓練で習熟することができた。その上、ミニエー弾を使用するライフルド・マスケットは滑腔マスケットよりはるかに高精度であった。 ミニエー弾を発射するライフルドマスケットと、丸弾を発射する滑腔マスケットによる10インチ四方(25cm×25cm)の標的を対象としたテストでは、ライフルドマスケットがはるかに高精度であることが示された[7]。 滑腔マスケットでは距離200ヤードでの命中率は42-48%であった。300ヤードでは18%であった。ライフルドマスケットでは、300ヤードにおいて46-48%、500ヤードでも24-42%であった[8]。 しかしながら、この潜在的な高精度を引き出すためには、高度な教育と訓練を要する技能が必要であった。ライフルマスケットであっても未熟な新兵が使うと、滑腔マスケットと比べ大幅に優秀とは言えなかった。それにもかかわらず、ライフルドマスケットは戦場では恐るべき戦闘力を発揮した。南北戦争勃発時、一部の歩兵連隊は滑腔マスケットを選択した。滑腔マスケットは散弾と丸弾(buck and ball)を同時に装填し発射することもできたからである[9]

1860年代と1870年代、ライフリングのある銃身をもつより新しい兵器が生産され、それらはもはや当初滑腔マスケットではなく最初からライフリングが施されていたが、「ライフルドマスケット」あるいは「ライフルマスケット」と呼称されていた。この単語は、滑腔マスケットを直接的に置換した兵器においてのみ用いられた。例えばパーカッションロックと長い銃身を持つスプリングフィールドM1861は、「ライフルドマスケット」と呼ばれた。対照的に、同時代生産されていたヘンリー連発銃や、スペンサー連発銃はライフルドマスケットを置換することも、マスケットのような特性も持っていなかったので、単に「ライフル」と呼称されていた[要出典]

1880年代と18990年代までに、スプリングフィールドM1873スプリングフィールドM1892-99等の単発後装式ライフルや、連発式ライフルによって、ライフルドマスケットは大部分が陳腐化した。非常に多くの単発後装式ライフルが、ライフルドマスケットのパーカッションロックをそのまま置換することで生産され、そうしてできたライフルはもはやライフルドマスケットとは呼ばれず、代わりに単に「ライフル」とだけ呼ばれるようになっていた。

ライフルド・マスケットの特性

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一般に、ライフルドマスケットは置換する前の滑腔マスケットと同じ長さであった。典型的には銃身はおよそ40インチ(100cm)で、全長は55-60インチ(140-150cm)であった。当時のアメリカ造兵廠命名規則では、ライフルやライフルマスケットは、ライフリングを持つように特別に設計され、生産されたものを意味していた。ライフルドマスケットは、造兵廠や提携業者にライフリングのために返却されたマスケットを指していた。 1850年代、造兵廠に保管されていたかなりの数の滑腔マスケットがこの方法でミニエー弾を制式弾として発射できるように改造された。ライフルマスケットは前身の滑腔マスケットと比べ光景が小さくなる傾向があった。例を挙げると、スプリングフィールドM1855では.58口径であり、イギリスの1853年式エンフィールド銃では.577口径であった。1850年代半ばにアメリカ陸軍で行われた試験では、小口径弾は長距離でより高精度であった。円錐型をしたミニエー弾は、.58口径と小口径ではあるが丸弾よりも長いため、より大口径の.69口径の丸弾とほぼ同量の鉛からできていた。口径は縮小した一方で、銃身の長さはそのままであった。短銃身のライフルをつくることは容易であり(かつ乗馬歩兵ライフル兵などの特科兵向けに作られていた)、置き換える前の滑腔マスケットよりも高精度であったが、軍上層部は戦列を形成して射撃する戦術を好み、短銃身の兵器では、後列の歩兵が前列の歩兵を誤射する危険があることを恐れていた。その時代の軍上層部は、銃剣による戦闘が持つ重要性はライフリング以後も変わらないと考えており、そのことも銃身長を保つ決定に影響を及ぼした。

アメリカやイギリスの制式小銃は、銃身長が長い「ライフルマスケット」バージョンと、スプリングフィールドM1855のようなより短い「ライフル」バージョンが製造された。ライフルマスケットは40インチの銃身を持ち、全長は56インチ(140cm)であった。ライフルは33インチ(84cm)の銃身を持ち、全長は49インチ(120cm)であった[10]。 イギリス軍では、歩兵全体に支給したフルサイズのマスケットと、特別に訓練したライフル連隊や海兵隊向けのより短く、取回ししやすいバージョンのエンフィールド銃の区別は保たれていた。長いバージョンでは、銃身が3つの金属帯で銃床に取り付けられ、短いバージョンではそれが2つであった。そのため、それぞれ「3バンド型」「2バンド型」と呼ばれていた。

ライフルマスケットは典型的にはパーカッションロックを採用していたが、スプリングフィールドM1855のような例外もある。それはメイナード紙製雷管システムを装備していた。

ライフルマスケットは滑腔マスケットの直接の後継であったため、銃剣が装備されていた。 軍隊で運用するに当たり、ライフルマスケットの装填は紙製カートリッジを使用しある程度簡略化されており、近代の金属製実包とはかなり異なるものであった。それは一般には、筒状の紙に一定量の黒色火薬と、グリースの付いたミニエー弾を詰めたものであった。 滑腔マスケットの装薬と異なり、装薬全体を銃口から装填するものではなかった。その代りに、まず紙を破って空け(普通射手が歯を使って空けていた)、黒色火薬を銃身に流し込み、その後ミニエー弾を銃口から落とし込み、槊杖を使って火薬の一番上になるように装填した。 装填が終わると紙は廃棄された。その他近代の装薬と違う点は、雷管は別に存在しており、射撃時にパーカションロックの火門に装着する必要があった点である。メイナード紙製雷管システムは、この最後の段階をキャップ状の雷管ではなく、現代のおもちゃの雷管銃に似た、紙製雷管の帯を用いることで高速化しようと試みたが、野戦で運用するには信頼性が不足しており、後に廃止された。

こういった手法によらない例外として、エンフィールド銃の装薬が挙げられる。エンフィールド銃の弾丸には、ミニエー弾と違い、潤滑を保つために鋳造ないし鍛造された環状の構造は全くなかった。弾丸は装薬底部に位置しており、弾丸のある部分の外側の紙にはグリスが塗られており、弾丸と同時に装填され、この紙で隙間を埋めるように設計されていた。槊杖は弾丸をしっかりと装填するために用いられた。

戦場での使用

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ライフルドマスケットは南北戦争で頻用された。アメリカ製のスプリングフィールドM1861はその中でも最も広く普及したライフルドマスケットであり、その次がイギリス製の1853年式エンフィールド銃であった。オーストリア製のローレンツライフルは3番目によく使われたライフルドマスケットであった[11]

エンフィールド銃はクリミア戦争でも用いられており、長射程を生かし特定の戦闘状況では、エンフィールド銃より射程でかなり劣るロシアの滑腔マスケットに対してかなりの有利を示した。

しかしながら、ライフルドマスケットを装備した歩兵は戦場で常に成功を収めるわけではなかった。1859年の第二次イタリア独立戦争では、オーストリア軍はライフルドマスケットを装備していたが、教育と有効射程における訓練とが不足していたために、積極的な散兵戦術と近距離での素早い銃剣突撃を用いるフランス軍に敗北した[12]

参照

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参考文献

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  1. ^ http://www.museum.ru/museum/1812/Library/Borodino_conf/2006/Celorungo.pdf
  2. ^ https://www.goodreads.com/book/show/28260455-british-light-infantry-rifle-tactics-of-the-napoleonic-wars
  3. ^ Dupuy, Trevor Nevitt (March 21, 1990). The evolution of weapons and warfare. Da Capo Press 
  4. ^ Wilcox, Cadmus Marcellus (1861). Rifles and rifle practice: an elementary treatise upon the theory of rifle firing 
  5. ^ Bilby, Joseph G. (1996). Civil War Firearms: Their Historical Background and Tactical Use 
  6. ^ Carter, Gregg Lee (2002). Guns in American Society: An Encyclopedia of History, Politics, Culture, and the Law. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. ISBN 1576072681. LCCN 2002-14682 
  7. ^ Claud E. Fuller, The Rifled Musket
  8. ^ Justin Stanage (2002). The Rifle-Musket vs. The Smoothbore Musket, a Comparison of the Effectiveness of the Two Types of Weapons Primarily at Short Ranges. Class paper, Indiana University.
  9. ^ Davide Pedersoli. .69 ball, buck and ball and buckshot cartridges of the U.S. Army
  10. ^ Walter, John (2006). The Guns That Won the West: Firearms on the American Frontier, 1848–1898. St. Paul, Minnesota: MBI Publishing Company. ISBN 9781853676925. LCCN 2006-284543 
  11. ^ Thomas Dean, and Earl J. Coates (1996). An Introduction to Civil War Small Arms
  12. ^ Jensen, Geoffrey; Wiest, Andrew (2001). War in the Age of Technology: Myriad Faces of Modern Armed Conflict. NYU Press 

外部リンク

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グイマーのピラミッドは、6つの長方形のピラミッド型をした、モルタルを使わず、溶岩を用いて建てられた階段状の構造物である。カナリア諸島テネリフェ島の、グイマーの一部であるチャコナ区にある。これら構造物は19世紀に成立し、その起源としては近代農業技術の副産物である可能性がある。

 同じ手法、同じ素材から成るピラミッドは、テネリフェ島のあちこちで見られる。グイマーにはもと9つのピラミッドがあったが、現代まで残っているものはそのうち6つだけである。

研究史

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トール・ヘイエルダールの仮説

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1990年、冒険家かつ出版業者のトール・ヘイエルダールは、テネリフェ島の新聞「Diario de Avios」に掲載された、フランシスコ・パドロンによって書かれた記事「カナリア諸島の本物のピラミッド」を読み、「カナリアのピラミッド」を意識するようになった。[1] ヘイエルダールは、エジプトと中央アメリカを結ぶ大洋間リンクが存在すると仮定していた。ヘイエルダールは、グイマーのピラミッドに興味を持ち、テネリフェ島へと移住した。そしてそこで、エジプトと中央アメリカの先コロンブス期に存在した墓地としてのピラミッドと、カナリア諸島の階段状構造物の間にあり得る類似性に関して研究した。

ヘイエルダールは、カナリアのピラミッドは、古代エジプト文明と古代マヤ文明との間の時間的、地理的中継点であるという仮定し、歴史家、秘教者、考古学者、天文学者、そして歴史に興味ある人々に論争を巻き起こした。[2][3]

天文学的研究とフリーメーソン

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 1991年、カナリア諸島天文物理学研究所に所属する研究者であるJuan Antonio Belmonte Aviles(フアン・アントニオ・ベルモンテ・アヴィレス)、Antonio Aparacio Juan(アントニオ・アパラシオ・フアン)、Cesar Esteban Lopez(セサル・エステバン・ロペス)らは、グイマーの階段状構造物の中には、長辺が夏至と冬至を示すものがあることを示した。それらのピラミッドの主境界壁は夏至の日の入りを示し、西側の段が冬至の日の出の方向になるようになっていた。また、冬至の日に最も大きなピラミッドの段の上に立つと、「二重日の入り」を見ることができる。最初の日の入りが山の影になったのちに、再びその山の後ろから出現し、近隣峰の後ろに隠れる日の入りがもう一度起きるからである。[4] しかしながら、解釈の余地を考慮にいれても、これらの観察だけではピラミッドが建造された日時や、目的について結論付けることは不可能であった。[5]

2005年、Aparicio(アパラシオ)とEsteban(エステバン)によって、「グイマ-のピラミッド、神話と現実」と題された本がスペイン語で出版された。AparicioとEstebanらは、ピラミッドの至点への方向付けは、フリーメーソン象徴主義に由来する可能性があると提案した。この著者らは、至点はフリーメーソン象徴主義において非常に重要なものであり、このピラミッドが建てられた時代の土地所有者自身がフリーメーソンであるとした。この動機は審美的なものにすぎず、根本的動機である農業およびピラミッドの建造年月には何ら影響を与えなかった。

考古学的発掘

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1991年から1998年にかけて、トール・ヘイエルダールの同意のもと、ラ・ラグーナ大学先史学、人類学および古代史学部の考古学者たちによって、何回か発掘調査が実施された。1996年に、1991年の発掘調査の結果が学会で発表され、1998年に出版された。発掘調査によって、ピラミッドの年代を示す根拠が示された。[6] 先行する地球物理学的地中レーダー探査により、ピラミッド付近の8地点は、それぞれの面積は25平方メートルであるが、硬質の溶岩床に至る層が調査された。そのような手法により、3つの明白な堆積層があることが明らかとなった。上部から、以下の通りである。

  1. 多くの植物の残骸や根を含む腐植土から成る約20cmの層。耕起による痕跡が明白に特定でき、年代を容易に測定可能なものが多いことから、この層は20世紀後半のものである。
  2. 第1層と類似しているが、腐葉土成分が少なく、小さな石をより多く含む約25cmの層。その年月を19世紀から20世紀に同定できるさまざまな発掘物があり、その中でも1848年の政府印章は特筆すべきものである。
  3. 25cmから150cmの厚さの層で、小さな火山岩から成る。この層は1回の操作でできた可能性が高い。この層によって、さらに下層の不揃いな石が水平になっているからである。この石はごくわずかな発掘物しか含んでいない。大半は小さな陶器のかけらであり、地元のものもあれば、輸入されたとみられるものもある。どちらも19世紀のものと推定されている。ピラミッドは層位学上、この3つめの底の層の真上にあることから、ピラミッドそのものの建造年月日は、最も古く見積もっても19世紀より古くさかのぼることはできない。[7]

さらに、ピラミッド群の中のあるピラミッドの境界の下に天然の溶岩洞が発見された。溶岩洞は壁で囲まれ、グアンチェ族の時代の人工物が溶岩洞から出土した。ピラミッドは層位学的に洞窟の上にあることから、西暦600年から1000年の間のものであるグアンチェ族の出土品は、この洞窟が人間によって使用された日時を支持するものでしかない。上述の探索によって、ピラミッドそのものは、19世紀以前のものではありえないことが示された[8]

結論

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グイマーのピラミッド

発掘にかかわった考古学者たちは、耕作可能な土地の石を除去する際、階段状に石を積み上げたことでこれらの構造物を作りだした、19世紀郊外に住んでいた人々の活動の結果として、階段状構造物が出現したという説を支持している。

ヘイエルダールはこの構造物が無計画に積み上げられた石ではないと主張している。ヘイエルダールは死ぬまで、ピラミッドとグアンチェ族とが関係しているとする彼の自説を信じていた。このグアンチェ族とピラミッドの関連性があるとする説は、より手の込んだ形となって、今も「ピラミッド公園」およびその公式サイトで掲載されている。

Aparicio(アパリシオ)とEsteban(エステバン)の説は、19世紀にピラミッドが作られたという事実と、それらが単なる石積みでないという認識を結び付けている。

民族学的公園

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1998年の発掘調査終了ののち、ピラミッド周辺の6万5千平方メートルの地域は、だれでも訪れることができるようになった。ヘイエルダールは彼の友人である、カナリア諸島の実業家Fred Olsenから財政的援助を受け取った。その実業家は、カナリア諸島で最大の運輸会社を経営しており、20世紀にノルウェーからカナリア諸島に移住してきたのである。 Aインフォメーションセンターでは、来訪者たちにヘイエルダールの研究旅行と、ピラミッドについての彼の以前からの着想に関する情報を提供している。二つのパビリオンは、ヘイエルダールと彼のボートの模型―Ra IIの原寸大模型や、それ以外のボート―に関する展示を含む。すでに略述されたところの、ピラミッドの年月に関する結論があるにも関わらず、ヘイエルダールはピラミッドの実在と、テネリフェ島の先スペイン期文明の関連性の可能性についての自説を持ち続けた。グアンチェ族の洞窟で見つかった発掘物は「博物館」の中で非常に大きくした写真で展示される一方、19世紀に輸入された陶器に関しては、イラストもなく、掲示板に概略が言及されているだけである。

参考文献

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  1. ^ Antonio Aparicio Juan/César Esteban López, Las Pirámides de Güímar: mito y realidad. Centro de la Cultura Popular Canaria, La Laguna 2005, ISBN 978-84-7926-510-6, p. 30-31.
  2. ^ Juan Francisco Navarro Mederos: Arqueología de las Islas Canarias", in: Espacio, Tiempo y Forma, Serie I, Prehistoria y Arqueología, Bd. 10, 1997, S. 467.
  3. ^ Antonio Aparicio Juan/César Esteban López, Las Pirámides de Güímar: mito y realidad. Centro de la Cultura Popular Canaria, La Laguna 2005, ISBN 978-84-7926-510-6, p. 35-52.
  4. ^ J. A. Belmonte, A. Aparicio and C. Esteban, A solsticial marker in Tenerife: the Majanos de Chacona, in: Archaeoastronomy (supplement of Journal for the History of Astronomy), No. 18, 1993, p. 65.
  5. ^ Antonio Aparicio Juan/César Esteban López, Las Pirámides de Güímar: mito y realidad. Centro de la Cultura Popular Canaria, La Laguna 2005, ISBN 978-84-7926-510-6, p. 42-43.
  6. ^ Maria Cruz Jiménez Gómez/Juan Francisco Navarro Mederos, El complejo de las morras de Chacona (Güímar, Tenerife): resultados del proyecto de investigación, XII Coloquio de Historia Canario-Americana (1996), Cabildo Insular de Gran Canaria, Las Palmas de Gran Canaria 1998, vol. 1.
  7. ^ Juan Francisco Navarro Mederos/Maria Cruz Jiménez Gómez: El difusionismo atlántico y las pirámides de Chacona, in: Miguel Ángel Molinero Polo y Domingo Sola Antequera: Arte y Sociedad del Egipto antiguo. Madrid 2000, S. 246-249.
  8. ^ Part of the preceding sections are based on the German wikipedia article Pyramiden von Güímar.

関連資料

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外部リンク

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座標: 北緯28度19分15秒 西経16度24分49秒 / 北緯28.32083度 西経16.41361度 / 28.32083; -16.41361