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利用者:Xiefei0312/sandbox

河田 桐之助(かわだ とうのすけ、1926年2月7日 - 2002年7月11日)は、日本の中国語通訳者,二重スパイ。

かわだ とうのすけ

河田 桐之助
生誕 (1926-02-07) 1926年2月7日
死没 2002年7月11日(2002-07-11)(76歳没)
愛知県名古屋市中区金山
墓地 日本愛知縣長善寺
出身校 東亜同文書院大学 (旧制)
職業 中国語通訳者
配偶者 须藤妙子  
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略歴

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中国泰州生まれ[1]。大学まで上海で教育を受ける。東亜同文書院大学 (旧制)を経て、1958年中国から帰国,愛知県名古屋市中区金山在住。中国語通訳者・翻訳者として活躍する一方、日本国際貿易促進協会事務局勤務。ベテラン同時通訳者として、40年以上にわたり、中日両国の指導者の会談などでの通訳を数多く務めた[2]

早年

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河田桐之助は上海東亜同文書院大学に入学し、翻訳、情報収集、データ収集、事務管理などの専門教育を受ける。 1944年卒業後、河田は在学中の語学の才能を買われ、中日通訳として働き始めた。国貿促会長村田省蔵の通訳者として、1955年訪中、周恩来首相と会談して信頼関係を築き、同年結ばれた日中貿易協定に日本通訳担当として参加した。[3]

日中辞書編纂

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1945年(昭和20年)9月、敗戦により東亜同文書院大学廃校。その際に学長を務めていた本間喜一(後に初代最高裁判所事務総長)が中心となり、学生・教職員を受け入れる大学として、1946年愛知県豊橋市に愛知大学を設立された。[4]東亜同文書院大学が進めていた中国語辞典編纂事業を引き継いで進めていた。河田は元東亜同文書院大学時代の恩師鈴木択郎に誘われ、1958年中国から帰国、『中日大辞典』編纂に尽力した。[5]

ピンポン外交

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1971年,日本の愛知県名古屋市で行われた第31回世界卓球選手権に,中国が6年ぶりに出場。中国卓球チームの通訳を務めた河田桐之助は、金山の自宅で日中辞書を暗号ブックとして使い、中国とアメリカへの暗号通信が行われた。[6]

著書

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脚注

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外部リンク

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  • [1]通訳の生活
  • [2]中日大辞典と河田桐之助