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利用者:Wamu9/礼拝車

鉄道によるアメリカ人米国西部への移住が進むにつれ、キリスト教の教団は西部に居住する人々へ教義を普及させる機会を得た。これに伴い、聖公会バプテスト教会カトリック教会は1890年代から1930年代まで、礼拝車と呼ばれる礼拝と情報提供のための特別な客車を使用した。礼拝車は礼拝の場であると共に、宣教師牧師の居住空間としても機能した。礼拝車には「車輪の上の礼拝所」として機能するための祭壇や椅子が設けられたほか、ステンドグラスで彩られたものもあった。

礼拝車の構想

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1883年にノースダコタ州の聖公会の司教に任命されたウィリアム・ウォーカーは西部の入植者が少ない広大な地域を担当する困難、そして西部の町が鉱脈の趨勢次第で誕生したり消滅したりする事実に直面していた[1][2] 。西部では、金や銀が発見された地域には職や新たな商いを求めて多くの人が殺到する一方、それが尽きると一気に人が離散し、町が消滅の危機に瀕することもあった。このような状況から、もし仮に町に教会を設立するのに十分な寄付が集まったとしても、それを維持するのに十分な寄付や人員が集まる保証は無かった[3]

1889年のシベリア旅行でシベリア鉄道の礼拝車[4] を訪問したウォーカーは、管轄区域内を移動し、礼拝などを行う礼拝用の鉄道車両を製作することを思いつく[2]。 教会が維持できない場合においても、移動式の礼拝車が教会と同様の役割を果たすことができると考えた。ウォーカーは東部の人々に対して、礼拝車の製作に対する賛同を嘆願した。彼の構想を受け、聖公会は礼拝車製作の資金を募るために東部の教区各地で多くの募金イベントを開催した。彼はさらに、ニューヨーク・セントラル鉄道の社主であったコーネリアス・ヴァンダービルト2世から多額の寄付を得た。結果、3,000ドルを集めたウォーカーは、プルマン社に礼拝用車両の製作を依頼し、それに「ザ・カテドラルカー・オブ・ノースダコタ(ノースダコタの大聖堂車)」と名付けた[1][5][6]

聖公会の礼拝車

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側線に留置中のバプテストの礼拝車「グラッド・タイディング」

アドベント教会の礼拝車(ザ・カテドラルカー・オブ・ノースダコタ)

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「ザ・カテドラルカー・オブ・ノースダコダ」は全長60フィート(約18メートル)。車内はオルガンを備えた礼拝室とウォーカーの執務および居住のための部屋に分かれていた。車両は予め訪問を知らせた地域の駅の側線まで輸送され、そこで礼拝を行った。地元の鉄道会社の厚意により運賃は無料であった[1]。完成したザ・カテドラルカー・オブ・ノースダコタはファーゴへと送られる前に、プルマン社のあるシカゴの人々を招き入れた[7][1]

車両はノースダコタ州キャリントンを拠点とし、ウォーカーや後任者のエドセル司教によって運営された。1899年に退役するまで州内を延べ70,000マイル(約110,000キロメートル)巡行し、1901年に売却された。グエルフのセントメアリー教会は礼拝車の洗礼盤とを譲り受けた[1]

北ミシガン教区の礼拝車

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ミシガンの司教長であったモット・ウィリアムズ司教はウォーカーと同様、教会から離れた信者へ連絡をとらなければならない課題に直面していた。ウィリアムズはウォーカーほどの資金援助を受けられなかったため、礼拝車を新造する代わりに2両の中古の客車を購入し、礼拝車へと改装した。完成した礼拝車は1891年から1898年まで教区で使用された[2][6]。1898年にオントナゴンの町の大部分が焼失した火事により、町にあった教会も焼失した。このとき、礼拝車は全ての宗派の被災者へ仮設住宅として提供された[6][8]

バプテスト教会の礼拝車

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バプテストの礼拝車製作に影響を与えたボストン・スミス

バプテスト教会の礼拝車は1891年に登場した。ボストン・スミスによる子供の日曜学校参加と教会信者の増加についての調査を受け、実業家のチャールズ・コルビーとコルゲート・ホイットが礼拝車製作と運営のための基金を寄付し、バプテスト教会初の礼拝車である「エヴァンジェル(福音)」がバーニー・アンド・スミス社で製造された[9]。ホイットは複数の鉄道会社の役員を務め、そのうち1社では副社長の地位に就いていた。また、彼の兄弟のウェイランドはミネアポリスのバプテスト教会の牧師だった。鉄道を使った全国旅行の最中、2人はバプテストのための礼拝車製作について議論した。そして、ホイットは他の実業家を集め「バプテスト礼拝車シンジケート」を結成し、石油王として知られるジョン・ロックフェラーもこれに参加した[2][6][10]

バプテストの礼拝車は1890年から1913年の間に計7両がバーニー・アンド・スミス社で製造された[6]。また、トーマス・エジソンはバプテストの信者でなかったにも関わらず、礼拝車のために蓄音機を寄付した[3] 。

エヴァンジェル

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「エヴァンジェル」の大きさや車内配置は聖公会の礼拝車であるザ・カテドラルカー・オブ・ノースダコタに類似しており、車内の半分が礼拝室、残り半分が居住室となっていた。1891年5月23日にシンシナティのグランドセントラル車両基地に納車された後、セントポールへ移動し地元の教会信者から寝具、敷物、食器の提供を受けた。さらに、教会の青年会は車両の窓ガラス設置のための資金を提供した。窓ガラスが取り付けられるしばらくの間、エヴァンシルは工場へと送られた。また、エスティー社はオルガンを寄付した[2][6]

礼拝車の前に立つ実業家ウィリアム・コールマン。彼は1911年に照明器具を礼拝車へ寄付した。

当初エヴァンジェルに搭乗していたボストン・スミスは、ノーザン・パシフィック鉄道ゼネラルマネージャーのウィリアム・メレンから、線内を自由に移動できる許可を得ていたものの、初めての巡行の直前にエヴァンジェルが規定で定められていた脱線対策が施された特殊な車輪ではなく、通常の車輪が装着されていたことが判明した。しかし、車輪換装の前にモンタナ州リビングストンまでの運行することが特別に許可された[2][6]

スミスは1891年12月、ポートランドにてウィラー宣教師夫妻にエヴァンジェルを引き渡した。1892年までミネソタ州ウィスコンシン州を巡行し、1894年には米国南部に移動した。1901年から1924年までオクラホマ州テキサス州カンザス州コロラド州ネブラスカ州を巡行し、ローリンズで退役した。その後、1930年までに地元の「チャペルカー聖書教会」に移された[2][6]。現在もエヴァンジェルはチャペルカー聖書教会に保存され、予約者に向けて公開されている。

エマニュエル

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「エマニュエル」は1893年恐慌の最中に製作された。製作元であるバーニー・アンド・スミス社は公開会社となっており、資金繰りに苦慮していた。車両価格に装備品は含まれておらず、ウェスティングハウス・エア・ブレーキからのブレーキをはじめ、バネ、車輪、毛布、食器やレンジなどの多くの物品は企業から寄付を受けたものであった。また、企業以外にもバプテスト系団体から物品の寄付を受けた。家具はファースト・バプテスト教会の女性たちから寄付された。完成したエマニュエルはエヴァンジェルより10フィート(約3メートル)長く、1893年5月24日にデンバーにて納車された[2]

エヴァンジェル最初の宣教師でもあったウィラー夫妻がエマニュエル最初の宣教師として搭乗した。1895年、修理と塗り替えのための工場入場に伴い、エヴァンジェルに搭乗していたウィラー夫妻がミネソタにある家へ帰宅する途中に乗車列車が事故により大破し、夫が死亡した。この事故の後、エマニュエルの居住室の扉に彼を偲ぶステンドグラスが取り付けられた[2]

エマニュエルは1938年までコロラド州のサウスフォークを拠点に米国西部および北部を巡行した。1942年にサウスダコタ州のスワン湖畔のバプテストキャンプに移され、売却されるまで13年間保管されていた。売却後は工業会社の倉庫として利用されていた。後に歴史公園「ヒストリック・プレーリー・ビレッジ」の大工がその姿を発見し、修復が行われた。1976年にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、1982年に修復が完了した[2][11]。2011年現在もヒストリック・プレーリー・ビレッジに保存されている[2][12]

グラッド・タイディングス

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「グラッド・タイディング(福音)」は実業家ウィリアム・ヒルズの寄付により、1894年5月25日にサラトガ・スプリングズにて納車された。寄付に際して、彼は年末までに4両目の礼拝車製作のための寄付を集めることを条件として付した。グラッド・タイディングス最初の宣教師であるラスト夫妻は新婚だった。また、夫妻の5人の子供のうち2人はグラッド・タイディングスの車内で産まれた。


グラッド・タイディングスは米国中西部シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道沿線を巡行した。1905年、ラスト夫妻は礼拝車から離れ、コロラド州、ワイオミング州アリゾナ州で活動する宣教師に車両が引き継がれた。第一次世界大戦の影響で1915年から1919年まではワイオミング州ダグラスに放置されていたものの、1920年に必要な修理を受け、1926年までアリゾナ州で使用された[2][6]。退役後はフラッグスタッフに運び込まれ、基礎上に車輪を撤去した状態で設置され、1930年代初頭に解体されるまで「グラッド・タイディングス・バプテスト教会」として使用された[2][6]

グッド・ウィル

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「グッド・ウィル」のバークマン牧師夫妻

「グッド・ウィル(善意)」は1895年6月1日にサラトガ・スプリングスにて納車された。この車両は人口増加を続けるテキサス州へと送られ、テキサス・バプテスト連盟と協同した。1900年のガルベストン・ハリケーンでは、宣教師たちは町にいたが、グッド・ウイルはアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道のガルベストン車両基地にあったため、損傷こそあったものの破壊は免れた。損傷修理のためにテキサスのバプテスト信者からの寄付を募った。1905年までに巡行地域がミズーリ州とコロラド州に変更され、その後さらに西部および太平洋岸北西部へと移動し20年間巡行を続けた。1938年、運行を停止し、カリフォルニア州ボーイズ・ホット・スプリングスのホテルに移設された。1998年に同地で存在が確認されたものの、修復工事などは行われていない。

メッセンジャー・オブ・ピース

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「メッセンジャー・オブ・ピース(平和の知らせ)」は1898年5月21日にロチェスターにて納車された。75人のバプテスト信者の女性からの100ドルの寄付を受けて制作されたため「レディース・カー」としても知られている。恐慌による財政難が続いていたものの、バーニー・アンド・スミス社はメッセンジャー・オブ・ピースを完成させた。1904年にはセントルイス万国博覧会のパビリオン「交通宮殿」にて展示され、鉄道に関する展示の最優秀賞を受賞した[13]

メッセンジャー・オブ・ピースは中西部で1910年まで使用され、その後1年間キリスト教青年会へと送られ、ボストンで開催された伝道に関する展示会にも出展した[13]。1913年までに太平洋岸北西部へ移動しワシントン州内を巡行した。第二次世界大戦後の1948年に退役し、売却され食堂に転用された。1997年に私有地で存在を確認され、その10年後にノースウェスト鉄道博物館に寄贈された。2012年には名匠ケビン・パロによる修復工事が完了した[2][14][15][16][17]

ヘラルド・オブ・ホープ

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「ヘラルド・オブ・ホープ(希望の兆し)」はバプテスト最後の木製礼拝車であり、1900年5月27日にデトロイトにて納車された。デトロイトのウッドワード・バプテスト教会の若年男性たちが、車両製作費用のうち1,000ドルを寄付したことにちなみ「ザ・ヤング・メンズ・カー」とも呼ばれ,中西部で使用された。1911年にオハイオ州デイトン にあるバーニー・アンド・スミス社の工場で修繕工事を受けた後、1915年にウェストバージニア州へと移り、ヘラルド・オブ・ホープ最後の宣教師であるウィリアム・ニュートンが1931年に亡くなるまで巡行した。ニュートンの死後、彼の妻ファニーはヘラルド・オブ・ホープから離れることを拒み、1935年まで自宅としてヘラルド・オブ・ホープに居住した[18][2]


その後、ヘラルド・オブ・ホープは行方不明になっていたが、1947年にクインウッドの閉業した炭鉱会社において、車輪が外された状態の姿が撮影された。クインウッドはニュートン夫妻が宣教師として最後に勤めていた地域であった[2]

グレース

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「グレース」はバプテストが製作した最後の礼拝車であり、唯一の鋼製車であった。コナウェイ一家が娘グレースを偲んで寄付した資金により、1915年にバーニー・アンド・スミス社で製作された。製作費用はバプテスト初の礼拝車であるエヴァンジェルの5倍を上回っていた。グレースは1915年にロサンゼルスにて納車され、サンフランシスコ万国博覧会にて展示された。万博での展示後は、カリフォルニア州で巡行を始め、ネバダ州、ユタ州、ワイオミング州、コロラド州でも使用された。1946年に退役した後、ウィスコンシン州のグリーン湖畔のバプテストの集会場で保存されている[2][6]

カトリック教会の礼拝車

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カトリックの礼拝車製作を提案したフランシス・ケリー父

フランシス・ケリー神父は1905年に新設されたカトリック教会普及協会の会長になった。ケリーは1904年にセントルイス万国博覧会を訪れ、バプテストの礼拝車であるメッセンジャー・オブ・ピースを見学していた。そこで彼は礼拝車がバプテストに与えた功績に感銘を受けた。そして、普及協会が遠隔地へ布教するにあたり、この種の車両が効果的であることを確信した[19][1][2][20]

会誌において彼は「バプテストにそれができたのなら、カトリックにそれができないことがあるだろうか?」と記し、礼拝車製作のための寄付を募った[2]。1907年から1915年の間に3両の礼拝車が普及協会へと提供された。うち2両はプルマン社で製作され、残る1両はデイトンのバーニー・アンド・スミス社で製作された[2][6][1]

セントアンソニー

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カトリック初の礼拝車である「セントアンソニー」はアンブローズ・ペトリーとプルマン社副社長であったリッチモンド・ディーンの寄付によって製作された。改造種車は1886年プルマン社製の客車であり、プルマン社の工場にて礼拝車へ改装され、司祭の居住室を備えた[2][1][21]。長さは72フィート(約22メートル)。1907年に納車され祝福を受けた後、カンザス州、ルイジアナ州、ミシシッピ州をはじめ西部や太平洋岸北西部で使用された。1909年までにオレゴン州へ移ると、そこで80教区を新設する功績を挙げた。鉄道木造車全廃により1919年に退役した[19][6][2][1]

セントピーター

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デイトンの実業家ピーター・クンツがセントアンソニーを訪れたとき、彼は既存の木造客車を改造して礼拝車とするのではなく、新造することを意見した。そして彼の25,000ドルの寄付により、1912年にバーニー・アンド・スミス社で鋼製礼拝車「セントピーター」が新造された[22]。製造当時、セントピーターは世界最長の鉄道車両であった。セントピーターは1912年から1930年代まで使用されたほか、1915年のサンフランシスコ万国博覧会にもバプテストの礼拝車「グレース」と共に展示された[6][19][2][23]。現在、セントピーターはノースカロライナ州の「シエナの聖カタリナ教会」に保存されている。

セントポール

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カトリック最後にして最大の礼拝車である「セントポール」はセントピーターと同様、クンツの寄付によって製作された。シカゴのプルマン社工場で製作され、長さは86フィート(約26メートル)にも及んだ。1915年3月14日にニューオーリンズにて納車され、その後はルイジアナ州、テキサス州、ノースカロライナ州、オクラホマ州で使用された。1936年までにセントピーターとセントポールは保管状態となり、セントポールは教区で使用するためにグレートフォールズの司教のもとに送られた。1967年にモンタナ州上院議員のチャールズ・ボベイに売却され、彼の鉄道博物館へと収められた[2][1][6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j Chapel car”. Pullman Museum. 5 December 2011閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Taylor, Wilma Rugh; Taylor, Norman Thomas, eds (1999). This Train is Bound For Glory: The Story of America's Chapel Cars. Judson Books. pp. 382. ISBN 0-8170-1284-2. https://books.google.com/books?id=0SdSAQAAIAAJ&q=this+train+is+bound+for+glory 5 December 2011閲覧。 
  3. ^ a b Graves, Dan. “Inexpensive Chapels on Wheels”. Christianity.com. 5 December 2011閲覧。
  4. ^ 最も著名なシベリア鉄道の礼拝車は1896年にサンクトペテルブルクのプチーロフ工場で製作されたものである。製造当初の写真は以下の写真アーカイブでも閲覧できる。<http://archive.yourmuseum.ru/project/sib-foto/transsib/stations/st6.htm>
  5. ^ Walrath, Harry R.. “God Rides the Rails: Chapel Cars on the Nation's Railroads”. Frontier Trails. 5 December 2011閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Chapel Cars of America”. Chapel Cars.com. 5 December 2011閲覧。
  7. ^ “A Cathedral on Wheels”. New York Times. (13 November 1890). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1890/11/13/106044641.pdf 5 December 2011閲覧。  (PDF)
  8. ^ The Ontonagon Fire”. The Ontonagon Herald (5 September 1896). 6 December 2011閲覧。
  9. ^ “The Great Progress That Has Been Made In Minnesota”. New York Times. (3 February 1891). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1891/02/03/106046753.pdf 6 December 2011閲覧。  (PDF)
  10. ^ “John D. Adorns a Church With Daisies”. New York Times. (23 June 1913). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1913/06/23/100630737.pdf 6 December 2011閲覧。  (PDF)
  11. ^ Emmanuel Chapel railroad car”. National Register of Historic Places. 6 December 2011閲覧。
  12. ^ Chapel Car Emmanuel”. Prairie Village.org. 6 December 2011閲覧。
  13. ^ a b History of the Messenger of Peace Car”. Northwest Railway Museum. 6 December 2011閲覧。
  14. ^ Saving Messenger of Peace”. Northwest Railway Museum. 6 December 2011閲覧。
  15. ^ Rehabilitation of the chapel car”. Northwest Railway Museum. 6 December 2011閲覧。
  16. ^ Catchpole, Dan (16 February 2011). “Railway Museum hosts benefit to restore Chapel Car 5”. SnoValley Star. http://snovalleystar.com/2011/02/16/railway-museum-hosts-benefit-to-restore-chapel-car-5 6 December 2011閲覧。 
  17. ^ Historic Messenger of Peace railroad chapel car begins long road to restoration”. Encyclopedia of Washington State History Online (13 September 2001). 6 December 2011閲覧。
  18. ^ “Chapel Car Dedicated”. New York Times. (28 May 1900). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1900/05/28/101057455.pdf 6 December 2011閲覧。  (PDF)
  19. ^ a b c St. Anthony Parish, Portland Oregon”. Parishes Online. 6 December 2011閲覧。
  20. ^ The Catholic Church Extension Society”. The Catholic Encyclopedia. 6 December 2011閲覧。
  21. ^ “A Catholic Chapel Car”. New York Times. (4 April 1907). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1907/04/04/106745896.pdf 6 December 2011閲覧。  (PDF)
  22. ^ Famous chapel on wheels visits Washington”. Library of Congress (16 July 1931). 6 December 2011閲覧。
  23. ^ “This Church Is On Wheels”. New York Times. (6 October 1913). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1913/10/06/100409475.pdf 6 December 2011閲覧。  (PDF)

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