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ミロン・クリステア
[編集]ミロン・クリステア | |
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Miron Cristea | |
ルーマニア王国 首相 | |
任期 1938年2月11日 – 1939年3月6日 | |
君主 | カロル2世 |
前任者 | オクタヴィアン・ゴガ |
後任者 | アルマンド・カリネスク |
ルーマニア独立教会 総大主教 | |
任期 1925年 – 1939年 | |
後任者 | ニコディム・ムンテアヌ |
個人情報 | |
生誕 | エリエ・クリステア 1868年7月20日 オーストリア=ハンガリー帝国、トプリツァ |
死没 | 1939年3月6日(70歳没) フランス共和国、カンヌ |
政党 | 民族再生戦線 |
出身校 | ブカレスト大学 |
宗教 | ルーマニア正教会 |
エリエ・クリステア (ルーマニア語: Ilie Cristea、1868年7月20 - 1939年3月6日) 、修道名ミロン・クリステア (ルーマニア語: Miron Cristea) はルーマニアの聖職者、政治家。ブカレスト大主教を経て、新設されたルーマニア独立教会の総主教に就任。1938年2月にカロル2世によって議会が解散されたのちには氏の委任によりルーマニア王国首相となった。
生涯
[編集]オーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー王冠領のトランシルヴァニアで生まれる。ビストリツァで基礎教育を修了後、ナサウドにて東方典礼カトリック教会哲学を、シビウでギリシア正教神学を学んだ。その後はオラシュティエのルーマニア・ギリシア正教学校で教員と校長を務めた。学校を退いたクリステアはブカレスト大学へ入学して哲学と文献学を修め、ミハイ・エミネスクの生涯と作品を取り扱った論文によって1895年に博士号を修得した。
トランシルヴァニア帰還後のクリステアはシビウ大司教府に参加。1900年に輔祭に叙聖され、翌年に首輔祭に昇叙された。1902年には現ルーマニア・アラド県のホードシュ・ボードローグ修道院の修道士となり、修道名として「ミロン」を戴いた。
1908年にカランセベシュ主教のニコラエ・ポペアが没したが、彼の後任の選任はルーマニア正教会とオーストリア=ハンガリー帝国の権威との間における紛争を引き起こした。彼の後任は2度選ばれていたが、いずれもハンガリー政府の要求を聞き入れたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世により主教と認められなかった。クリステアは1910年11月21日に3人目の候補者として選出されてついに皇帝から主教叙任を認められ、1919年には大主教になった。
1918年10月18日、第一次世界大戦が終結へ向かう中、トランシルヴァニアとルーマニアの合同を標榜する集団としてルーマニア民族評議会が結成された。民族評議会はトランシルヴァニアにおけるルーマニア民族を代表する唯一の集団であるとされ、クリステアもカランセベシュ主教としてこれに加わった。また彼は同年12月1日に開催されたアルバ・ユリアのルーマニア民族大集会にも参加している。
1919年5月28日にルーマニア国王フェルディナンド1世とイオン・I・C・ブラティアヌ率いるルーマニア政府はトランシルヴァニアのクンピア・トゥルジーにあるミハイ勇敢王の墓地に赴き、クリステアはこれに正教会主教として加わった。彼はここでルーマニア民族主義に基づいた演説も行い、そこで彼はフェルディナンド1世とミハイ勇敢王にある共通点を指摘したうえで、王に対してトゥルダに留まることなく、ティサ川まで突き進むように進言した。
1919年12月1日、ブカレスト大主教だったコノン・アレメスク=ドノツィがドイツ占領期のドイツ帝国とのコラボを理由に大主教を罷免された。これを受けて開かれた大主教選任会議によって、12月31日にクリステアは大ルーマニア成立後初のブカレスト大主教に選出された。1925年に主教会議での決議を受けてルーマニア正教会が総主教座へと昇格されたことで、同年11月1日に聖シノドが開かれクリステアはルーマニア正教会の初代総主教となった。