利用者:Uryuudou/sandbox
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"箕面街道"(みのおかいどう)は、長興寺南より能勢街道から分岐し、桜の町、春日町、永楽荘を通り箕面市牧落で西国街道に合流し、箕面の滝、勝尾寺へ至る街道である。東から来た勝尾寺街道と合流し終点となる。この道は明治20(1887)年に、つけかえ新道と合していた。
歴史
[編集]"箕面街道"(みのおかいどう)は、江戸時代に長興寺南より能勢街道から分岐し、桜の町、春日町、永楽荘を通り箕面市牧落で西国街道に合流し、箕面の滝、勝尾寺へ至る街道である。東から来た勝尾寺街道と合流し終点となる。この道は明治20(1887)年に、つけかえ新道と合していた。これ以降、これまでの箕面街道を旧箕面街道と称するようになった。箕面街道は、ほぼ現在の曽根箕面線と重なって北上していく。
道標
[編集]箕面街道には旧新道を合わせ11の道標がある。以下に道標名「」と住所を記す。
- 「名号板碑 右みのふ山 南無阿弥陀 左いけ」長興寺南2-1 南十字路交差点 北西側 江戸時代(推定)六字名号の上部には天蓋らしきものが彫り出され、豊中ではただ一基の珍しいものである。[1]
- 福枝講造立の道標「東面 嘉永巳酉春福枝講」「南面みのを勝尾寺山こへ道」「西面池田道」北之坊彦治邸 長興寺南2の5 もと、長興寺南1の6生地長雄邸の角に建っていた。これは長興寺の集落で能勢街道から旧箕面、勝尾寺道が分岐する地点に建っていた。
- (正面)「右佐井寺 左勝尾寺」(左側側面)「天明元辛丑年南島屋」上新田1 勝尾寺と佐井寺道の分岐点で豊中市に現存する最古の道標である。
- (正面)「右か」馬頭觀音座像の陽刻 「上」上新田1 大岡正芳家の前に建っている。
- 「役の行者を刻んだ道標」「大峰 役の行者像 すぐ みのを山 かつをう寺 道」 上野東1 江戸時代(推定)
- 福杖構造立の道標「南面右みのを 勝尾寺山この道 左 池田道」 長興寺南2-7 嘉永2年(1849)[2]
- 此橋牛馬無用石標 桜の町6ー6ー23[3]
- (正面)「大峰山上 行者倚像 熊野田村興左衛門 三十七度 すく みの かつを寺」 中桜塚5−1−2久保雅義宅角
- 春日町二丁目北道標「右みのお」「左ざい所」春日町二丁目北道標 春日町2ー3ー21 旧野畑村の北端の三叉路に南面してある。書体からみて江戸時代か明治初期のものと思われる。
- 春日町二丁目南道標「右かちをうし」「左みのお」春日町2丁目南道標 元春日町2−8松本長治家の角
- 昭和の道標 豊中市で最も新しい道標。「右豊中中 梅花女 学校道 左箕面街道」 本町1大池小学校北側。大正11(1922)年に新設の豊中中学校(豊中高校)への広い新道が開かれ、せまい箕面街道が分断されてわかりにくくなったために建てたものである。
- 福指講造立の道標「左大阪 福枝講」「右みのを 勝尾寺」「左池田へ」 桜ノ町五の九 西田邸の庭 道路舗装時に下部を欠損上部のみを西田氏が保存
- (右側面)「すぐいたみ中山みち」(正面)「大峰役行者像 すぐ みのを山 かつをう寺 道」(左側面)「上新田 京 道 熊野田村世話人 大峰講中」(裏面)「すぐ 大坂 はっとり天神 道」梅花学園南方 上野東1 新旧の箕面街道の交差点に建っている。
沿線
[編集]箕面街道の始まりとなる長興寺村は、豊中台地東端に位置する。これは、低地から水害を避けるため丘上に移った移転の事実を実証するものである。近世後期、南地区のほぼ中心にあたる大坂道と箕面道の分岐点に高札場があったとされる。