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利用者:Uryah/2008年5月に思ったところ

昔も今も、優秀な人が優秀であることに所以する役割は常にあると思う。そこに多くの人は敬意を払わなければならない。

ところで、ITが普及した。ウィキメディア・プロジェクトではシングルログインが行われるようになった。平安時代に空海が海を渡って密教を持ってきたような、明治時代に洋行した人達が文明開化をもたらしたような、何かを“仕入れてきた”人達がこれを“独占”しようとすることで“地位を持つ”“地位を保ちたい”方向の力学/ベクトルは、西暦2000年代のいま、品を欠く性分に感じる。もっといえば、下品に感じる。

2008年のいま、知性とは:朝日新聞 2008年4月22日の記事「新たな知識人像探る 復権へ論壇から問題提起 知の全体性への野望・善意の暴走抑制・希望への道をつくる」 - 知の第一線に居る人達の言葉を含む。ウィキペディアにて拝見する幾人かの人は、偉大だ。とても偉大に見える。

上記の理由から、幾人かの人は、どうにも軽蔑してしまう。何か1つに秀でていること、たとえば野球がすごく出来るということと、人間として尊敬できるかということは別のことだ。直に接するときには、たとえば野球がすごく出来るということはとても大きな要素として、ほとんど全面的なものとして映る。でもテレビとか、インターネットとか、メディアを通して見ると、それは別個のこととしてちゃんと見える。