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岩崎想左衛門【生没年:1598年(慶長3)~1662年(寛文2)】
岩崎想左衛門重友は、1598年、現在の周南(しゅうなん)市にある富田村に生まれました。岩崎家は、代々毛利家に仕える武士の家でしたが、想左衛門が生まれたころの岩崎家は、農業を営む浪人暮らしで、想左衛門も9才の時、寺へ修行に出されます。しかし、もう一度、武士に戻りたいという思いを持った想左衛門は、寺を出て、成人後には鹿野(かの)村へと移り住みます。 鹿野村は、台地状の地形にあり、村の中央には錦川が流れていましたが、低い位置にあるため、利用は困難で、村では、かんがい用水はもちろんのこと、飲み水にすら事欠くありさまでした。想左衛門は、この窮状を救うため、私財を投げ打ち、錦川の支流渋川の水を村へと引く工事を藩へ申し出ます。 1651年、藩の許可を得て、漢陽寺(かんようじ)の裏山を掘り抜いて水路を引く工事が始められますが、約90mもの岩盤にノミとツチでトンネルをくり抜くこの工事は、困難を極めました。4年後、ようやく工事が完成し、トンネルから水がほとばしり出ると、それまで、荒地であった鹿野の台地にも、次々と新しい田畑が作られていきました。 想左衛門の功績を認めた藩主は、岩崎家を再び藩士として登用し、鹿野村は、想左衛門の没後約80年後の1740年には、石高および田畑数で二倍近い増加を果たしました。このトンネルは、後に想左衛門と親交のあった当時の住職によって、「潮音洞(ちょうおんどう)」と名付けられ、これは、観音菩薩のように「慈雨(じう)を注いで民を潤す」という意味だといいます。潮音洞から流れる水は、現在も鹿野の大地を潤しており、潮音洞は、現在、県の史跡に指定されています。漢陽寺の裏の水路の上には、想左衛門の功績をたたえた頌徳碑(しょうとくひ)が建てられています。