利用者:UnozawaTomoki/sandbox
悪の問題
[編集]悪の問題は全知全能で最善な神を伴った悪の存在のための仲裁の仕方の問題について言及する。(「有神論」を参照)
悪への議論は悪の存在とそのような神との共存が、ありえない、あるいは不可能であることを明らかにしようと試みる。
それについての反対の意見を明らかにしようという試みは伝統的に神義論の代表者の考えに従い議論された。
また、宗教哲学における悪の問題も同様に、神学と倫理学の分野でも重要な地位を占めている。
悪の問題はしばしば、悪の論理的問題と証拠的問題の2種類に系統立てて説明された。
議論の論理的な方法は神と悪の共存が論理的に不可能であることを明らかにしようという試みと、その一方で、証拠的な方法は世界に悪を与えることは、それが全知全能で完全な神にとって重要であるということを明らかにようということを試みである。また悪の問題は人間以外の物理的悪による動物の苦しみと人間の動物虐待を含む生物の方法へと広がっていった。
悪の問題の様々な返答には反論、弁護、神義論の3つの形式が存在した。返答の広い範囲はそれらの議論に寄せて作られた。
多くの悪への議論と他の哲学の分野に関連した問題もまた同様に存在した。たとえば世俗倫理や、進化倫理学などがあげられる。
しかし一般的には「悪の問題は神学の背景事情によってもたらされたものである。」と理解されている。
悪の問題は実はキリスト教やイスラーム教、ユダヤ教といった全知全能を有する神を信仰する一神教に適応する。
しかし、それは同様に仏教やヒンドゥー教、ジャイナ教のような無神論的な、あるいは多神教的な宗教を研究しなければならなかった。
形式化と詳細な議論
[編集]「神の存在証明」を参照
悪の問題は悪の存在と世界の苦しみとともに全知全能な神を信じることへの和解の挑戦について言及する。問題は経験的か、もしくは理論的に説明することができる。
経験的な問題は、現世において苦しみやあるいは悪いことを突きつけられた時、愛ある慈悲深き神への考えを信じ続けることが困難である。
たとえば伝染病や戦争や殺人、レイプ、テロなどがその場にいる無邪気な子どもや女性や人々、あるいは愛する人を犠牲にさせたとして、それでもなお愛ある慈悲深き神としてそれを信じることができるだろうか。悪の問題は同様に、一般的に2人の宗教学者による研究と説明によって理論的に論理的な問題と証拠的な問題について説明することができる。
悪の論理的問題
[編集]ギリシャの哲学者エピキュロスから端を発する悪への論理的な議論は次の通りになる。
1.もし全知全能で最善な神が存在するのならば、結果的に悪は存在しない。
2.悪は世界に存在する。
3.したがって、全知全能で最善な神は存在しない。
この議論はモーダストレンスを用いており、もし前提が真になるための、必要不可欠な結論だ。という妥当性がある。
最初の前提はもっともらしく、それに続く考えもそれをさらに詳しく説明したものとなる。たとえばもう一つのの例はこのような感じだ。
1.神は存在する。
2.神は全知全能でかつ最善なるものだ。
3.最善ならば全ての悪を抑えなければならない。
4.全知ならば悪が生じるあらゆる術を知り、生じる悪を抑えることができる。
5.全能ならば悪は存在を食い止め、抑え込む力を持っている。
6.悪が生じるあらゆる術を知り、生じる悪を抑えることができ、そして悪を抑えることを望む者がその悪
の存在を防げるのだろう。
7.もしそれらが全知全能で最善な神として存在するのならば、結果的に悪は存在しない。
8.悪は存在する。(矛盾する。)
これらの議論の両方は悪の論理的問題の2つの形式を理解するための提示だ。
それらは仮定された命題が論理的な矛盾をきたす原因となり、結果として全て正しいとは言えないということを明らかにするよう試みる。
一神教
[編集]キリスト教
[編集]聖書
[編集]悪の存在は存在の有無の問題だけでなく、全知全能にして最善なる神への信仰にも影響を及ぼした。
何故なら、もし神が全知全能にして最善である場合、神が事件や事故などから降り注ぐような悪を創造することもできるからだ。
聖書的な見解では、悪は「神と神の目的に対抗するもの」(すなわち罪)あるいは人間的な見解では「非生産的で害をなすようなこと」(すなわち苦しみ)である。
キリスト教神学は一般的に悪の問題と神の存在との対立に関して最善説と自由意思説の2つの弁護を用意した。
最善説は神は世界に悪を創造した。何故ならそれらは神の予定と神の目指す最善な世界をもたらすために必要最低限の悪が必要不可欠であるからであると説明した。
もう一つの手法として、自由意志説は「もし神が悪を禁止したら、神は世界の自然律や自由意志に干渉するだろう。」と説明した。
最後の審判
[編集]ジョン・ハルダンのウィントゲンシュタイン・トマス主義的な見地からの説明とマルティン・ハイデッガーの世俗的(???)の観測は神による創造行為と審判の行為は同じ事であるという結論をもたらす。
神による神による最後の審判の日に他者へと宣告し伝えるための不変でかつ不滅の審判は神の大いなる意志による止められない審判による悪への糾弾は後に天地創造を行うための気持ちを表していたと信じた。この説明によると、神による悪への糾弾は良い審判を期待させた。
アウグスティヌスの神義論
[編集]「アウグスティヌス神義論」を参照
ジョン・ヒックの著書『Evil and the God of Love』によるとアウグスティヌス(390~430)の神義論は創世の物語において神の天地創造における悪がただ単にアダムとイブによる神への背反と彼らに植え付けられた先天的な罪による堕落の結果によって引き起こされたことであるということと、神の本質的な命令によるものであるということに焦点を絞っている。
また、アウグスティヌスは悪の種類を自然界における悪、たとえば自然災害などを表す物理的悪(natural evil)と人間の意志によって引き起こされる悪による道徳的悪(moral evil)の2つに分けた。
アウグスティヌスは物理的悪は堕天使によって引き起こされ、一方で、道徳的悪はアダムの背反によって堕落した結果によるものだと述べた。アウグスティヌスの説明によると、神は創造に際して悪は創造しておらず、善のみを創造し、あらゆる悪の観念は善の欠如体である。つまり悪は善から分離した個体ではない。
たとえば、盲目の人は目でものを見ることできないのは、ただ単に不運によるものか、何かしらの形で視力を奪われたかのどちらかである。ここにおける盲目の人は悪に嘆いているが、アウグスティヌスの神義論に基づくならば「悪の問題と苦しみは役に立たない。何故なら、悪は善の欠如体であり、またアダムによる神への背反により起こったものであるわけだら、神は悪を創造しなかった。」と答えるだろう。
つまり、盲目の人に降りかかった悪は、神の創造したものではなく、アダムによって引き起こされたものであるわけだから、もしそこにおいて盲目の人が神を呪うのは違うと言うことである。
トマス・アクィナスの神義論
[編集]「神学大全」を参照
トマス・アクィナスはアウグスティヌスの悪の概念を体系化し、彼の独特の思想を補った。悪はトマスによれば、欠乏か、厳密な生物の本質に属する善の欠如である。
したがって、悪の起源が存在せず、神による最善に相当する。悪は現実には存在しない。しかし、理性的な、すなわち、実在はしないが、実在するための道理のある悪が存在する。たとえばその悪が客観的な事実としてではなく、主観的な事実として存在する。物事はそれ自体が悪なのではなく、他の物事や他者との関係性という理屈により悪になる。
全ての事実はそれ自身は善で、それらが悪い結果に導かれた時に限り、悪になる。そして前述したように悪の究極的な本質は根本的には善であり、物質も同時に、悪を抱えている。
ルターとカルヴァン
[編集]「原罪」を参照
ルターとカルヴァンは原罪とアダムの堕天が悪の原因であるとを説明した。しかしカルヴァンは神の大いなる意志による予定説によって人々は救済さえると説いた。
ルターはアダムとイブによって引き起こされた原罪と悪を理解した上で、それらの観念やアダムの罪による悪の創造の全てを許し、神によって作られた人がそれらの観念を疑うことを許した。究極的に人間はこれらの神の予定を理解することはできない。
イスラーム教
[編集]中世や近代のイスラーム神学者たちは来世的な神義論の観点から悪の問題を説明しようとした。サイード・ヌルシィ(1877~1960)によると、現世の世界はオスマン帝国の崩壊や、世俗主義に基づいた思想的転換のように多くの悪に満ちあふれている。イスラーム教における全知全能で最善なる神は全てのものを創造し、人間の苦しみやその原因(悪のこと)もそこに含まれていた。
悪は悪くもないし、神の道徳的な正当化も求めなかった。しかし来世でその報いを期待することも同様にできた。短い人生において忠実な信徒が苦しむことは、神の審判により来世で永遠の命を得て天国を謳歌するための試練である。
イスラム教の代わりの神義論は11世紀のイブン・スィーナーによる悪の存在の否認(「不足理論」)があり、それはキリスト教における最善説の理論と似ている。このイブン・スィーナーによって打ち立てられたこの理論は失敗に終わった。シャム・イナティによるとそれは神の全能性を否定しているからである。