利用者:TofuMisosoup/下書き2
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織田氏と高力氏
[編集]青山家蔵古文書および旧・額田郡高須村(現・愛知県岡崎市福岡町付近)にある織田家に伝わる家譜には、それぞれ高力氏が同村を開拓した経緯、高力氏の人物が織田信雄の息子とされる人物を養子としたとされる経緯が記されている。
高須村の開拓
[編集]以下は、青山家蔵古文書に記されている高須村の起源である[1]。
- 重長が一族で卜部に居住していた頃の1533年(天文元年)、大洪水で矢作川の支流が氾濫し、隣村であった山本四郎兵衛の領地が人家・田畑ともに流れ失せた。これにより、四郎兵衛の領地は砂や礫が連なる荒廃した河原となり放棄されていた。重長は近村の住民を雇い入れて荒れ地の開発に乗り出し、重長の二男・重正を筆頭支配人として、重正の8人の弟とともに開墾に出精した。重長はこの郷の始祖となり、本村である高力の「高」と荒れ洲の「洲」を組み合わせてこの郷を「高洲」と命名し、高力郷の分村とした[1]。
また、後述の文献などによれば重長・重正らは高須村に移住したとされる[2]。
織田氏との関係の伝承
[編集]高須村の歴史は、同地の出身である織田完之が法要の際に記した文章や同地の織田家の家譜、『三河国額田郡福岡村誌』を元に一端を知ることができるとされる[2]。以下は、高須村の織田家譜に記された、重長の曾孫とされる人物が織田信雄の息子とされる人物を養子とし、同地の織田家の発祥となったとする逸話である[2][注釈 1]。
- 重正の孫であった直崇(通称・熊谷次郎左衛門)は香道に精通しており、織田信長の前でたびたび香を焚いた。また、織田信雄から深く懇望されたため、香道の真意を伝えた。1587年(天正15年)11月、直崇が清洲城に出仕したとき、信雄の側室であり伊勢国の社家の人物・久田某の娘である「園の方」が、妊娠5ヶ月であり暇が出ることとなっていた。直崇は日頃より信雄から恩情を受けていたため、信雄より園の方の取り計らいを命じられた。直崇は妻子を持っていなかったため、信雄と園の方との子供を自分の養子にすることを願い上げ、これについて信雄から許可があった。その際、信雄より、生まれた子供が男子であったら必ず申し出ることを指示され、直崇は帰国した[3]。
- 翌1588年(天正16年)4月5日、男子が誕生した。直崇は大変喜び、同年12月、この男子は信雄に謁見した。信雄は大変喜び、この子供を「信太郎」と命名した。信雄は信太郎について、この子が成長すれば必ず一郡の領主とするとして、正長の短刀、家系図、黄金2枚を与えた。直崇は喜んで帰国し、信太郎を養育した[3]。
- 1590年(天正18年)、織田家は滅亡した。直崇は憂いに耐えられず出家する志を強くし、自らの家を信太郎に譲り、園の方を信太郎の後見人とした。直崇は信太郎について、織田内府(信雄)の血筋であり織田氏の姓を捨てるのは忍びないと言い置き、自らは僧となった。直崇は織田氏の本国が越前国であることにちなみ、「越」の字に「崇」の字を付けて「越崇」と号した。越崇は同村・八郎右衛門の屋敷に庵を結んで隠居し、1625年(寛永2年)病死した。信太郎は以降高須村に居住し、「織田次郎左衛門信久」と名乗った[4]。
なお、高須村は江戸時代に600石を有し、1685年(天和5年)から松平右衛門太夫の領土、1688年(元禄元年)より徳川氏の領土となり、1690年(元禄3年)より幕領となったとされる[5]。
- 河合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37巻、安城市教育委員会、2012年3月、ISSN 0287-0096。
- 『新編福岡町史』編集委員会(編) 編『新編福岡町史』福岡学区郷土誌委員会、1999年。
- ^ 出典中446、447頁の現代語訳および448頁の家譜の原文(写真)を元に要約を示した。