利用者:Tenpen
教会の真実について
、旧約聖書のダニエル書に、一つの石が人手に寄らずに切り出されて、其の石が段々大きくなって世界中に広がり、イザヤ書に予言されている、終わりの日に神の家の山は、諸々の山の頭として堅く立ち、諸々の峰より高く聳え、総ての国は此れに流れて来て、多くの民は其の道に歩もう、槍を打ち変えて釜とし、国は国に向かって剣を上げず、最早戦いの事を学ばないとある、此の予言の石の教会が、モルモン教会だと主張している、モルモン教会は最初、神とイエスキリストが地上に現れ、其れから、次々と天使が現れて設立された教会だからと主張している、風変わりな教会であろうか、此の教会は永遠に至るでしょう、と予言されている、そんな教会が現実に有ると言う事です、神が存在すると言う事を意味する教会だと言う事に成るでしょうか、宗教は死と来世に関わる問題が含まれているのであるから、真実か如何かの確証を得て置かなければ成らない問題では無かろうかと考えます、 又、此の教会は、昔の十二使徒ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が天使として直接現れ、設立された教会だから、回復された真の教会だと言っています、。
祭主は男系です、 神は父なる神で男子であり、御子はイエスキリストは男子です、エホバの神はモーセを選んで預言者とし、兄のアロンを選んで祭司とした、天皇家が男系にこだわったのは祭司だからでしょう、 神に関わる系統も男子です、十二使徒も男子でしょう、女性は母体として教会の全体を指す意味で大切な存在です、 現在は末日として、黙示録に災害が予告されています、ブラジルのジュセリーノ氏の警告がバックアップしている感じです、神とのつながりを持つ事が大切なのでしょう、 イエスキリストが十字架に架かった時、他に二人いた盗賊の一人は、イエスキリストと共に、パラダイスに行きました、 マタイ伝には、裁きの時、人は右と左に分けられて、左側の者達に、永遠の火に入ってしまえ、と言っている、 イエスキリストの十字架の意味は、イエスキリストを十字架に架けた側の部類に属するか、架けられた側に属するかの違いかも知れない、そんな気がします、。
人は新しく生まれなければ救われ無い 人は初めに霊として生まれ創造されて神の前で生活していたが、神の様に成る為に肉体が与えられ、地上が存在する様に成った、しかし、アダムの罪に依って人は神の前から追い出された状態に成ったので、人は飽くまで人で有って死んでも人であって、神の子では無いので、イエスキリストの罪の贖罪と復活の許しを受けなければ神の前に戻れ無いし、帰れ無いのです、此れが人生の条件であり、目的なのです、此れ以外に道は無いのです、此れ以外は強盗であり、盗人と言っています、其れで人は幾ら偉くなっても神の条件に適合しなければ神の前に帰れ無いのです、此れが人の人生なのです、宿命と言う事でしょうか、 此れを知るのに一生かかる人もあれば、早く知る人もいるでしょう、人生様々と言う事でしょう、 神は総ての事を御存知です、誰が何処で如何言う時に福音を受け入れるか御存知です、 生まれながらに福音の中で育った人は幸いでしょう、又、福千年の期間の中で生まれ育った者は百歳以上生きると旧約聖書のイザヤ書に記されています、神の能力を知るべきでしょう、そんな気がします、。 罪について 人は生まれながらに罪を持っている、如何言う事かと言えば、土で造られた動植物は死が有る様に生きて行くには食物を取る訳ですが、此れが欲の総本性であって善悪をわきまえず取って自分の物にする、此れが罪の発生です、人は生まれながらに罪を背負って生まれて来る訳です、 アダムが罪を犯したから罪が生じる事に成ったのでは無く、アダムが罪を犯して日の栄光の状態のエデンの園から追い出されて、星の栄光の状態である死のある肉体の状態で人は生まれて来る様に成ったのです、此れは神の前の全人類の大会議で神の提案を受け入れたから地上の生活が在るのです、 地上での罪の贖いをかって出て下さったのがイエスキリストなのです、感謝しなければ成らないのに殺してしまった、現在は其の様な状態の地上なのです、地上での生活が各自の、或いは永遠の状態を自ら決める事に成るのでしょう、そんな気がします、。