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利用者:Tantal/To Do List/サブノート1

世界遺産 ロータス・フォート
パキスタン
ロータス・フォートのカーブル門
ロータス・フォートのカーブル門
英名 Rohtas Fort
仏名 Fort de Rohtas
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (4)
登録年 1997年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

ロータス・フォート、あるいは、ロータス城塞ウルドゥー語قلعہ روہتاس)は、シェール・シャーによって、建設された要塞である。要塞の周囲は約4キロメートルに達し、パシュトゥーンあるいは、ヒンドゥー建築の好例である。ロータス・フォートは、ジェルム市(en)の北西16キロメートルに位置している。海抜818メートル、面積は、12.63エーカー。カハーン川(en)の南側に位置し、Tilla Jogianと呼ばれるパンジャーブ州東部最大の岩塩地帯(en)にある。


名前の由来[編集]

シェール・シャーは、この城塞の名前をつけるにあたり、現在のビハール州にあるロータスガル・フォートの名前を採用した。この地方は、シェールが、1539年に自らの王国の版図に加えた地域である。ロータスガルは、ソン川の上流域、北緯20度37分・東経85度33分にある。ロータスガルは、ソラー朝のハリーシュ・チャーンドラが自らの子供であるRohitasvaにちなんで名づけた城塞である。

建設の目的[編集]

シェールが、ロータス・フォートを建設した目的の1つに、カナウジの戦いでインドから追放されたムガル第2皇帝フマーユーンのインド復帰を阻止する目的があった。ロータス・フォートは、現在のアフガニスタンとパンジャーブ平原を結ぶGTロード上にある。ロータス・フォートによって、ペシャーワルからラホールへいたるルートの防衛線の役割を果たした。

第2の目的に、現在のパンジャーブ州に広がるポトハル平原(en)に居住していた諸部族を抑圧があった。これら諸部族は、フマーユーンと同盟関係にあり、シェールと友好関係を築くことを拒否していた。ポトハル平原に居住していたガハール族(en)は、現在のスルターンプール(en)にいくつかの要塞を建設し、シェールに逆襲を展開した。これらの要塞は、現在も残っている。

概観[編集]

ロータス・フォートの概観。図の左側の部分がカハーン川に面している。要塞は、左側のインナー・フォートと右側のアウター・フォートに分けられる。

ロータス・フォートは、守備隊を駐屯させるために建設された要塞であり、3万人の軍隊を駐留させることが可能であった。要塞の地政学上の要請から、厚い壁、罠が仕掛けられた城門、3本の井戸を備えている。ロータス・フォートは、一度も攻囲戦を経験していないが、これらの設備により、難攻不落の要塞となった。

要塞の建材の多くは、近隣の村から集められた切石で作られている。いくつかの部分では、レンガが使用された。

この城塞の形は不規則である。それは、等高線に従って、城塞が設計されたからである。城塞の周囲は約4キロメートルに達し、全長533メートルの壁が城内を2つに分割する。城塞には、68基の稜堡が不規則に設けられた。3本の井戸が掘られた。

建設にかかった費用[編集]

ロータス・フォートの建設は、1541年に始まった。この地に居住していたガハール族は、城塞の建築に対して、協力姿勢を採ることはなかった。

建設を指揮したトダール・マル(Todar Mal)は、シェールに対して、建設が難航している状況を報告したが、シェールは、建築に関して、費用を削るつもりは無いので、建設に邁進してほしいと励ました。

とはいえ、ガハール族のボイコットは、ロータス・フォートの建設に大きなコストとして跳ね返った。

城壁[編集]

ロータス・フォートをめぐる城壁の高さはおおよそ10メートルから18メートルの間に収まる。厚さはおおよそ10メートルから13メートルの間に収まり、厚さによって、2ないし3つのテラスが設けられた。厚さの面で最大なのは、モーリー門の13メートルである。テラスは、手摺つきの階段と連結している。

ロータス・フォートに設置された稜堡において、マスケット銃を装備することが可能になっており、戦士たちは、また、壁越しに溶融した鉛を注ぐことができた。

城門[編集]

ロータス・フォートは、12の城門を持つ。全ての城門が、切石積みで建設されている。

ソハール門[編集]

ソハール門の図

ソハール門は、シェール・シャー時代に建設された、ロータス・フォートにおけるもっとも好例の石造建築の城門である。ソハールの名前の由来は、門の南西に埋葬されている聖者ソハール・ブハーリーである。

長方形の形をしているソハール門は、二十問の形式を採用している。21.34メートルの高さ、幅20.73メートル、奥行き15メートルであり、中央のアーチ部は、4.72メートルの幅がある。ソハール門には、内部・外部ともに質素ながらも美しいヒマワリをモチーフにした装飾が施されている。

ソハール門には、中央部のアーチ部の両側に、バルコニーが設けられている。それぞれのバルコニーには、小さなドーム建築が施されており、バルコニーの側面と底部にもまた、彫刻が施されている。他のロータス・フォートの建築物がアフガン・ペルシャン様式による建築がなされているのに対して、ソハール門のバルコニーは、ヒンドゥー様式を採用している。ロータス・フォートのような形式を採用しているバルコニーは、Haveli Man Singhで見ることができる。アーチ部の中央部には小窓がある。この小窓は、両側のバルコニーとは異なり、簡素なつくりである。

ソハール門は7つの欄干がある。また、銃眼も備えており、内部は3層構造である。

ソハール門の内部は、外部と正反対で装飾はあまり施されていない。加えて、銃眼やバルコニーも備え付けていない。ソハール門の上層階は、城塞内部に向けての窓が設けられている。

シャー・チャンドワーリー門[編集]

シャー・チャンドワーリー門は、城壁の主要部と礼拝堂を結ぶ門である。聖者シャー・チャンドワーリーにちなんで名づけられた。彼は、この門の建築にあたり、俸給を拒否した人物である。また、彼は、建築中に死亡し、門のそばに埋葬された。彼を祭る祠が現存する。

この門もまた、二重構造を採用している。幅13.3メートル、奥行き8.23メートル、中央のアーチ部は幅3.66メートルである。

カーブル門[編集]

カーブル門の図面

この門は、城塞の西側に位置し、カーブルへ続くルート上にあることからカーブル門と名づけられた。カーブル門も二重構造であり、幅3.15メートルある。門の両脇には、稜堡が設けられ、外側には5つの銃眼が設置された。門の南側は、シャーヒー・モスクに面しており、人々はこの門のことをシャーヒー・ゲートと呼ぶ。また、シャーヒーの井戸も近くにある。

シーシ門[編集]

シーシ門の図面

シーシ門の名前の由来は、アーチ部分の装飾に美しいタイルが用いられたことにある。ロータス・フォートのタイル技術は、のちに、ラホールで洗練されることとなる。色は青色である。

ランガー・ハーン門[編集]

ランガー・ハーン門の図面

ランガー・ハーン門は、二重構造をしており、高さは15.25メートル、幅は3.5メートル、中央部にはアーチの開口部がある。ソハール門と同様に、ランガー・ハーン門にもまた、小窓が備え付けられてある。

ランガー・ハーン門の両脇には、2つの稜堡が設けられてあり、この門には、台所や食料庫、井戸がある。この門の形式は、L字型をしており、外から入るとすぐに右側に曲がる必要がある。

タラク門[編集]

タラク門は、15.25メートルの高さ、13.8メートルの幅がある。両脇には、稜堡が設置されている。タラクとは、「離婚」を意味する。

カシミール門[編集]

この門は、北側に位置し、カシミールにつながる門のため、このように呼ばれている。

カワス・カン門[編集]

この門は、シェールの部下でもっとも偉大なカワス・カンの名前にちなんで名づけられた。ロータス・フォートの城門の中で独特の形をしているのは、この門が、かつてのGTロードに直結しているからである。

二重構造をしており、外門は、幅12.8メートル、奥行き8メートルである。両脇にはそれぞれ稜堡と防御壁が設けられている。稜堡には大砲が採用された。内門と外門は鏡のような関係性を持っている。この門の頂点には、5基の銃眼つき胸壁が設置された。この門の特色として、他の門にはないが、内側に向けても5基の銃眼つき胸壁が設置されている。内門・外門それぞれが、ソハール門と同様のヒマワリをモチーフとした彫刻が施されている。この門もまた、内外両面に向けられた窓が設けられている。

ガハール族がシェールと同盟関係を築くことを拒否した際、シェールが彼らを討伐するために軍を起こしたこととこの門について、関係が認められる。シェールの遠征により、ガハール族の族長と彼の娘を捕らえることに成功し、族長サラン・ハーンは、殺され、彼の娘は、カワス・カンと結婚した。

ガタール門[編集]

この門は、高さ9.1メートル、奥行き6.1メートルの一重構造である。パターン人の一部族であるガタール族の村と面しており、カシミール渓谷へいたるジェルム川をわたるポイントとして重要な門であった。

トゥラー・モーリー門[編集]

トゥラー・モーリー門は他の門と比べるとずいぶん小さい。城塞の東側に位置し、幅は2メートル。門のそばには、稜堡が隣接している。

ピパルワール門[編集]

ピパルワール門もトゥラー・モーリー門と同様に小さな門であり、幅は、2.13メートルである。

サール門[編集]

この門は小さい門であり、稜堡が隣接している。この門のそばには井戸がある。Sarとは、水を意味することからこの門の名前はつけられた。

他の建築物[編集]

シャーヒー・モスク[編集]

カーブル門のそばにある小さなモスクがシャーヒー・モスクである。祈りを捧げる人々のための部屋と小さな庭がある。シャーヒー・モスクは、ロータス・フォートの中でもっとも装飾が施された建物である。

部屋は、長さ19.2メートル、奥行き7.3メートルある。小部屋は3つに均等に分けられている。城の内側からは3つのドームを見ることができるが、外側からは見ることができない。これらの3つの小部屋の脇には、宗教指導者のための小部屋が設けられている。

モスクの外壁は、イスラームの韻文がカリグラフィーで刻まれている。ロータス・フォートのデザインは、のちに、シャー・ジャハーンヌール・ジャハーンの墓、あるいは、ラホール城のシャー・ブルジュ門にも採用された。また、このデザインは当時のムガル帝国の硬貨が採用されているものである。

井戸[編集]

ロータス・フォートには、3つの井戸が存在する。それぞれの井戸が、石灰石の層まで、深く掘られている。

メインの井戸[編集]

城塞の中央部に位置するのがメインの井戸である。この井戸で、戦士たちのみならず、戦象やウマ|軍馬が水分を補給した。メインの井戸は、148段の階段がついており、階段の幅は、20センチメートルである。

シャーヒーの井戸[編集]

カーブル門の近くに彫られたのがシャーヒーの井戸であり、王族がこの井戸を使用した。60段の階段がついており、王族が入浴するための小部屋も附属している。

サール門の井戸[編集]

サール門のそばにも小さな井戸である井戸がある。このサール門の井戸は、主に戦士たちが使用した。

ラニ・マハル[編集]

ラニ・マハル(王妃の宮殿)とは、Haveli Man Singhのそばにある宮殿である。一層構造の建物であり、かつてはこの建物には4部屋があったとされるが、現存しているのは1部屋のみである。とはいえ、4部屋とも、その基礎構造は現存している。

ラニ・マハルは、もともと、ロータス・フォートが建設された建築物ではなく、Haveli Man Singhと同時期に建設されたヒンドゥー建築の好例である。

現存しているラニ・マハルの高さは約20フィート(6メートル)であり、建物の内壁、外壁ともに、美しい装飾が施されている。ラニ・マハルのドーム屋根は、花のような形状である。ラニ・マハルの屋根の内部は、花、幾何学模様、偽窓が施されている。

装飾的特徴[編集]

石に刻まれた彫刻[編集]

ロータス・フォートの門、あるいはモスクは石で築かれており、その大部分には、アラビア文字で書かれたカリグラフィー、ヒマワリをモチーフにした彫刻が刻まれている。

そのうちの1つが前述のシャーヒー・モスクの内部であり、また、もう1つが宗教指導者の小部屋の内壁に刻まれている。それはの彫刻には、アラビア語でアッラーフと刻まれている。同様の彫刻は、シャーヒー・モスクの胸壁の上部にも見出すことができる。

ヒマワリをモチーフにした彫刻はシャーヒー・モスクのそれぞれのアーチ部分の両側で見ることができる。

カリグラフィーによる描写[編集]

これらの描写の多くがシャーヒー・モスクに施されている。モスクの外壁、アーチの両側には、6つのカリマ(en)と呼ばれるアラビア語の言葉がカリグラフィーで描写されている。ここではアラビア語の書法であるナスフ(Naskh)が利用されている。

輝くタイル装飾[編集]

シーシ門では、タイル装飾を見ることができる。ムガル時代に、タイル装飾が洗練され、人気となっていった。したがって、ロータス・フォートによるタイルの使用は、インドにおける最初の使用例と考えられる。タイルはラホールで製造されたものである。

Machicolations[編集]

Machicolation(en)とは、部屋の内部から城壁の外に溶融した鉛やそれ以外の熱い液体を排出するための小さい排水路である。壁の内部に向けて建設されたこれらの設備の数はロータス・フォート内で100以上を数え、それぞれに、美しく幾何学模様による装飾が施されている。

建築様式[編集]

ロータス・フォートは、アフガン・ペルシャ建築様式によって建設されている。インド亜大陸には、アフガン人とペルシャ人がこの城塞の建築の5世紀前には、到来していた。ロータス・フォートの建築以前では、アフガン建築とヒンドゥー建築が融和した形では存在したことは無かった。ロータス・フォートは、2つの建築様式が融合した最初の例である。

ヒンドゥー建築の要素は、

  1. ソハール門のバルコニー
  2. ヒンドゥー建築の様式で建築されたシャーヒー・モスク
  3. 純粋なヒンドゥー建築であるHaveli Man Singh

の3つである。

アフガン建築の要素は、

  1. 実利的な建築スタイル
  2. 城壁にレンガに変わって、石を使用したこと
  3. 住居空間が存在しないこと
  4. 装飾が相対的に少ない

点である。

ロータス・フォートの使用[編集]

シェール・シャーは、ロータス・フォートが完成する前に死亡し、彼の没後10年経過するとスール朝は滅亡した。フマーユーンが15年の海外生活を終え、インドに戻り、ムガル帝国を再興した。フマーユーンがインドに帰国するとロータスを塔していたタタール・ハン・カースィーはロータス・フォートから逃亡した。

ロータス・フォートの軍事的性格のため、ムガル皇帝の間では、この城塞は不人気であった。アクバルのロータス・フォートの滞在は1日のみだけであり、ジャハーンギールは、カシミールへ移動する際に泊まった。また、ジャハーンギールは、マハバット・ハーン(en) によって、カーブルが危機に晒された時に、再度滞在した。シャー・ジャハーンの妻であるヌール・ジャハーンはラホールから軍隊を引き連れ、マハバット・ハーンに、ジャハーンギールを解放するように命令した。ジャハーンギールは、ロータス・フォートに軍隊を進め、しばらくの間、ロータス・フォートは、王宮の役割を果たした。その後、ジャハーンギールは、カシミールを経た後ラホールへ戻り、そこで死亡している。

ジャハーンギール以降のムガル皇帝の城塞の使用はほとんど皆無である。というのも、ムガル帝国とガハール部族との間で同盟関係が締結されたため、ロータス・フォートに軍隊を駐留させる必要性がなくなったためである。

パシュトゥーン系のドゥッラーニー部族連合(en)は、ロータス・フォートの重要性を熟知しており、彼らは、ドゥッラーニー朝首都カーブルとの連絡のために、この城塞を使用した。

ドゥッラーニー朝が滅亡したのち、シク王国が、この地方を支配した。シク王国のマハラジャであるランジート・シングはロータス・フォートに駐屯したのは、シク王国の将軍ハーリー・シン・ナルワー(en)が ジャムルード(en、現在のパキスタンのトライバル・エリアの都市)でアクバル・ハーン(en)を中心とするパシュトゥーン人の手によって殺害された報を聞いた時である。

世界遺産登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

Present state[編集]

現在、ロータス・フォートの大部分が、いい状態で保存されている。シャー・チャンドワーリー門の中央アーチ部分は、最近になって再建されたものであり、唯一、建築当時の姿で現存しているわけではない。

2005年、水の浸出と豪雨、そしてその状況を放置していたために、タラク門の左正面が崩壊し、また、右正面の基礎部分と切り離された形となってしまった。

ガタール門は、ロータス・フォートへ入る門役割を果たしてきたが、時の経過により、門の右側の稜堡とそれを支える城壁が雨水の浸水により崩壊している。

ヒマラヤ野生生物財団[編集]

ロータス・フォートの保存は、2000年より、ヒマラヤ野生生物財団の協力を得ている。財団の協力により、ロータス・フォートは、国際的な保存基準を満たし、観光拠点となっている。ヒマラヤ野生生物財団の協力は、ノルウェー大使館の保証を受けている。現在では、以下の事業が行われている。

  1. シャー・チャンドワーリー門の完全な復旧
  2. Haveli Man Singhの保存
  3. タラク門とガタール門の保存
  4. ソハール門上部に設けたシェール・シャー博物館の設立
  5. ロータス・フォート内に存在する村落の生活水準の向上

参考文献[編集]

外部リンク[編集]


世界遺産 セラード保護地域:ヴェアデイロス平原国立公園とエマス国立公園
ブラジル
ヴェアデイロス平原国立公園
ヴェアデイロス平原国立公園
英名 Cerrado Protected Areas: Chapada dos Veadeiros and Emas National Parks
仏名 Aires protégées du Cerrado : Parcs nationaux Chapada dos Veadeiros et Emas
面積 65514.726563 ha
登録区分 自然遺産
登録基準 (9),(10)
登録年 2001年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示


この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
  • (10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

画像[編集]