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利用者:Takenari Higuchi/sandbox4

モスク (mosque)、またはマスジド (アラビア語: مسجد‎, masjid) は、イスラームの礼拝施設。ムスリムの礼拝や宗教教育、冠婚葬祭に用いられる。

モスクの建築様式に決まりはなく、時代や地域によって様々な様式、装飾、素材で建てられてきた。モスクの内部には、キブラを示す窪みでありモスクの必須要素であるとされるミフラーブや、説教台であるミンバル、礼拝前の清めであるウドゥを行う水場などが設けられている。また、モスクの外部にはミナレットと呼ばれる塔が付随している。

最初のモスクとされているのはマディーナに建てられたムハンマドの家である。これがモスクの原型となった。ウマイヤ朝時代にダマスカスに建設されたウマイヤ・モスクはミフラーブやミナレットが設けられ、その後のモスクのモデルとなった。

語義

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日本語のモスクという言葉は英語に由来する。アラビア語ではモスクは「マスジド (masjid)」と呼ばれる[1]。マスジドとは「平伏する場」を意味する[1][2]。アラビア語は動詞にミームが付くことで名詞となる。「平伏する」という意味である「サジュダ」という動詞にこのミームが付くことで「マスジド」という言葉となった[3]。マスジドという語がスペイン語において「メスキータ(mezquita)」に変化し、さらにこれが英語においては「モスク (mosque)」に変化した[1]

クルアーンにおいて

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イスラームの聖典である『クルアーン』において「マスジド」という言葉は28回登場する[4]。そのうちの16回は特定の場所を指しており、マッカにあるカアバを指すものが15回、エルサレムにあるアル=アクサーを指すものが1回である[4]。残りの12回は普通名詞として用いられている。そのうちの10回は「アッラーのマスジド」のようにイスラームと関係していると考えられているものであるが、イスラームに敵意を抱く者が建てた礼拝のための建築物を指している例や、ユダヤ教徒の礼拝堂であるシナゴーグを指している例がそれぞれ1回ずつある[5]。こうしたことから、『クルアーン』においては「マスジド」は礼拝の場として考えられていた一方でイスラームに限るものではないと考えられている[5]

歴史

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モスクの誕生

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622年、ムハンマドはマッカからマディーナへヒジュラを行った[6]。マディーナではムハンマドの家が建てられた[6]。このムハンマドの家が最初のモスクであるとされている[7]。ムハンマドの家はおよそ51メートル四方の中庭を3.6メートルの日干し煉瓦の壁が囲っていた[6]。伝承によるとムハンマドは3段の踏み出しに腰かけて説教を行っており、これがミンバルの起源となった[8]。ムハンマドはモスクの建築形態について指示を残さなかったが、このムハンマドの家がモスクの原型となった[9]。また、ムハンマドの家は礼拝の場だけでなく政治や軍事、社会の中心としても機能しており、後のモスクの機能に影響を与えた[10]

正統カリフ時代のモスク

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正統カリフ時代に建てられたモスクには決まった形はなかった[11]。正統カリフ時代にはムスリムによる征服活動が進み、10年あまりで現在のシリアやイラクがムスリムによって征服された[12]。シリアではキリスト教の教会がモスクに転用される場合が多かった[13]。その一方で、イラクでは新たに町が建設され、それと同時にモスクが建設された[14]。660年代にはこうしたモスクの建て替えが進み、煉瓦などの堅牢な素材で建てられるとともに規模が拡大されたが、様式は以前と大きな変化はなかった[15]

ウマイヤ朝時代のモスク

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シリアにあるウマイヤ・モスク

ウマイヤ朝の時代にモスクは恒久的な性格を持つ建築として建設されるようになった[9]。ウマイヤ朝のカリフであるワリード1世はダマスクスにあった聖ヨハネ教会を改修しウマイヤ・モスクとした[16]。ウマイヤ・モスクにはミフラーブやミナレットが設けられ、各地に建設されるモスクのモデルとなった[9]。ただし、当初のミフラーブは小さなくぼみに過ぎず、ミナレットも古代ローマの神殿時代の名残であった[9]

ウマイヤ朝のカリフであるアブドゥルマリクは682年から692年にかけてエルサレムにアル=アクサー・モスクを建設した[17]

金曜モスクは一つの都市にひとつに限られていた[18]

アッバース朝時代のモスク

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イラクにあるサーマッラーの大モスク

アッバース朝の時代にはミナレットや、精巧な装飾が施されたミフラーブがモスクにとって欠かせない重要な構成物となった。アッバース朝時代のモスクとしてはサーマッラーの大モスクやカイラワーンの大モスクが現存している[9]

ムスリム勢力の制服が進み、各都市におけるムスリムの人口が増加すると一つの金曜モスクではその都市のムスリムを収容出来ない事態が生じた。そのためアッバース朝の時代には一つの都市に複数の金曜モスクが建設されるようになった[18]

宗教的機能

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モスクは下記する礼拝と宗教教育のほか、イスラームに入信する際のシャハーダ(信仰告白)に用いられる[19]

礼拝

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ムスリムは毎日の礼拝の時間になると水場で身体を清めた後に、入り口で靴を脱いでモスクに入る[20]。前のほうから横に列を作って並び、イマームの声に合わせて礼拝を行う[21]。モスクはいつムスリムが来ても礼拝できるように扉は常に開かれていることが原則であるが、治安上の理由から集団礼拝の時間だけ扉を開けているモスクが多い[22]

モスクは主として男性のための礼拝の場になっている[23]。女性は家の中で礼拝を済ませるか、モスクに来てもカーテンで仕切られた片隅や別の階など男性の目に触れない場所で礼拝を行うことが多い[24]

宗教教育

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モスクは宗教教育の場としての機能も果たしている[25]。モスクでは一対一の個人抗議や対話形式で行われる集団講義が開催され、読み書きや『クルアーン』の暗唱などの初等の宗教教育が行われている[26]。こうした初頭の宗教教育で優秀な成績を収めたものや向学心があるものがイスラームの教育機関であるマドラサに進学し、ウラマーと呼ばれる知識人となって自らがモスクやマドラサでの教育に携わる[26]

社会的機能

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モスクは冠婚葬祭や憩いの場、悩みごとの相談や情報交換の場としての役割も果たしている[27]。結婚の際には証人が臨席するもとで婚姻契約であるニカーが行われる[28]。葬儀の際には遺体の清めであるグスルが近親者たちによって行われる[29]

建築

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モスクの建築様式についての定めはなく、時代や地域の風土、気候にあわせて様々な様式や装飾、素材でモスクが建設されてきた[30]

建築様式

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古典型

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預言者の家と、それを取り壊して8世紀初めに建設された預言者のモスクは方形の中庭をリワークと呼ばれる回廊が囲っており、古典型と呼ばれる[30]

ペルシャ様式

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イランから中央アジアにおいてはサーマーン朝の時代から、円形のドームやミナレット、ファサードを強調した巨大なイーワーンなどが建築されるようになる[31]。こうしたペルシア様式はセルジューク朝の時代に完成された[32]。ペルシア様式はモンゴル帝国のもとで東はインド、西はエジプトにまで広がった[33]

オスマン様式

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オスマン帝国の支配地では15世紀後半から、高く大きいドームと細く尖ったミナレットを特徴とするモスクが建設されるようになる。これはオスマン帝国に先行するビザンツ帝国の建築様式が影響したものである。オスマン帝国消滅以降もトルコや、トルコが支援して建設されたモスクでこの様式が取られている[30]

ムガル様式

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構成要素

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ミフラーブ

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預言者のモスクにあるミフラーブ

ミフラーブは、マッカの方向を示すためにモスクの壁に設けられた窪みである[34]。ミフラーブの形や大きさはモスクによって異なるが、アーチ型が取られることが多い[35]。また、大きなモスクには増築を経るなどして複数のミフラーブが設けてある場合がある[36]。当初、ミフラーブは単なる窪みであったが、次第に装飾が行われるようになった[36]。ミフラーブはモスクに必須な構成要素であるとされている[34][37]

ミンバル

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ミンバルは、ミフラーブの隣に設置されている階段である[38]。集団礼拝の際にはイマームがこの上に立って説教を行う。ミンバルの階段の数は定められておらず、大きさはモスクによって異なる。また、材料も石や木など様々である[38]。ミンバルの起源は、ムハンマドが演説や説教を行った階段に由来する[38]。小さなモスクにはミンバルが設けられていない場合がある[38]

ミナレット

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ミナレットは、モスクに付随する塔である[38]。ムアッジンと呼ばれる礼拝の呼びかけ人が礼拝の呼びかけであるアザーンを行うために用いられてきた[39][注釈 1]。ミナレットの高さはモスクによって様々であり、あまり高くないものもあれば、数十メートルに及ぶものもある[41]。こうした数十メートルに及ぶミナレットは礼拝を呼び掛ける機能よりも、モスクを建設した人物の権威や宗教的な敬虔さを示す象徴としての意味があった[42]

水場

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イスラームの象徴としてのモスク

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モスクはイスラームを象徴するものであるとされることがある[43]。1992年にはインドのアヨーディーヤーでヒンドゥー教徒がモスクを打ち壊した。この事件においてモスクはイスラームを象徴するものとして破壊の対象となった[43]

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、ムスリムが多数派を占めない社会では、イスラームについての理解がない人々の迷惑にならないようにという配慮からアザーンが行われることは少ない[40]

出典

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  1. ^ a b c 羽田 2016, p. 15.
  2. ^ 伊藤 2020, p. 562.
  3. ^ 深見 2003, pp. 102, 103.
  4. ^ a b 羽田 2016, p. 45.
  5. ^ a b 羽田 2016, p. 47.
  6. ^ a b c 羽田 2016, p. 49.
  7. ^ 羽田 2016, p. 50.
  8. ^ 深見 2002, p. 19.
  9. ^ a b c d e 伊藤 2020, p. 563.
  10. ^ 羽田 2016, p. 51.
  11. ^ 羽田 2016, p. 56.
  12. ^ 羽田 2016, p. 52.
  13. ^ 羽田 2016, p. 53.
  14. ^ 羽田 2016, p. 54.
  15. ^ 羽田 2016, p. 57.
  16. ^ 佐藤 2008, p. 110.
  17. ^ 佐藤 2008, pp. 132–134.
  18. ^ a b 羽田 2016, p. 17.
  19. ^ 水谷 2010, p. 19.
  20. ^ 羽田 2016, p. 33.
  21. ^ 羽田 2016, p. 34.
  22. ^ 羽田 2016, pp. 36–37.
  23. ^ 羽田 2016, p. 36.
  24. ^ 羽田 2016, p. 35.
  25. ^ 羽田 2016, p. 37.
  26. ^ a b 羽田 2016, p. 38.
  27. ^ 店田 2015, p. 41.
  28. ^ 店田 2015, p. 54.
  29. ^ 店田 2015, p. 55.
  30. ^ a b c 羽田 2002, p. 1005.
  31. ^ 深見 2013, pp. 78–79.
  32. ^ 深見 2013, p. 81.
  33. ^ 深見 2013, p. 129.
  34. ^ a b 羽田 2016, p. 20.
  35. ^ 羽田 2016, p. 21.
  36. ^ a b 羽田 2016, p. 22.
  37. ^ 深見 2003, p. 102.
  38. ^ a b c d e 羽田 2016, p. 24.
  39. ^ 羽田 2016, p. 27.
  40. ^ マクスウド 2003, p. 155.
  41. ^ 羽田 2016, pp. 27–28.
  42. ^ 羽田 2016, p. 28.
  43. ^ a b 羽田 2016, p. 43.

参考文献

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  • 伊藤喜彦 著「モスクの誕生」、鈴木薫; 近藤二郎; 赤堀雅幸 編『中東・オリエント文化事典』丸善出版、2020年11月、562-563頁。ISBN 978-4-621-30553-9 
  • 店田廣文『日本のモスク 滞日ムスリムの社会的活動』山川出版社、2015年。ISBN 978-4-634-47474-1 
  • 羽田正「モスク」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、1002-1004頁。