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お召し列車牽引指定機(60・61)

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EF58 61によるお召し列車
EF58 61によるお召し列車
EF58 60 指定機解除後 連結器上部車体側国旗掲揚用竿受を撤去
EF58 60 指定機解除後
連結器上部車体側国旗掲揚用竿受を撤去
国鉄EF58形電気機関車
157号機
157号機
基本情報
運用者 日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
製造所 日立製作所
東京芝浦電気(現東芝
製造年 1953年
製造数 2両(同系列全172両)
主要諸元
軸配置 2C+C2
軌間 1,067 mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
全長 19,900 mm
全幅 2,800 mm
全高 3,926 mm
運転整備重量 蒸気暖房 115.00 t
電気暖房 113.00 t
動輪上重量 蒸気暖房 86.40 t
電気暖房 87.00 t
台車 主台車HT60、先台車LT221
軸重 14.4 t
動力伝達方式 1段歯車減速、吊り掛け式
主電動機 直流整流子電動機 MT42×6 その後MT42F×6
歯車比 28:75=1:2.68
制御方式 抵抗制御・3段組合せ・弱め界磁
制御装置 電磁空気単位スイッチ式
制動装置 EL14AS 空気ブレーキ、手ブレーキ
保安装置 ATS-S/Sn形 EB装置 TE装置 ATS-P/Ps型
最高速度 100.0 km/h
定格速度 (全界磁)68.0 km/h
(弱界磁)87.0 km/h
定格出力 1,900 kW
定格引張力 10,250 kg
備考 1952年以降の改良型
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お召し列車牽引用の61号機

EF58形電気機関車(イーエフ58がたでんききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客直流電気機関車である。


EF58 60 61の詳細について

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改良型新製機グループでは第三次増備車での発注21両のうちの2両である、1953年に東海道本線名古屋電化用増備車として、60が東京芝浦電気株式会社(現・東芝[注 1])、61が日立製作所で製造された。60が1953年(昭和28年)7月27日付落成国鉄納入後、浜松機関区へ1953年(昭和28年)7月30日付で新製配属。[1]61が1953年(昭和28年)7月9日付落成国鉄納入後、東京機関区へ1953年(昭和28年)7月17日付で新製配属された[2]

EF58 60 61の製造に至る経緯から落成まで

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それまでお召し列車牽引用の電気機関車としては、1934年EF53 16・18[3]ならびに1937年製造のEF56 6・7がそれぞれ重連で用いられていたが、車齢が高い上にEF53形は暖房用ボイラーを未搭載であることから冬期には暖房車を連結する必要がありEF56の重連が担ってきたが、東海道本線電化延伸に伴う長距離運転では旧式なプレーン・ベアリング(平軸受とも呼ばれ、ベアリング等は使用せず鉄板(材質は異なるが)で機械油を潤滑油とし、回転摩擦抵抗を低くし走行を行う蒸気機関車と同一の構造である)なため摩擦で車軸が過熱する恐れがあった[注 2]

このため、お召し列車運用を前提として、最初から「お召列車けん引に関する特別装備を有する車両」として量産機ながら特別に製作仕様書が作成されて発注製造された[注 3]。本機の就役によりEF53形およびEF56形は、1954年にお召し列車の牽引の任から解かれ他区所に転出するなどし一般列車牽引にあたることとなる。

天皇の乗用列車を牽引するという非常に特殊な事情から、以下のような特別な装備が施されている。

  • 運転上の安全策および製造時の特殊装備
  1. 運転室前面の飾り帯を通常車両のニッケルメッキからステンレス製とし、前面飾り帯から結合するステンレス装飾帯を車体側面全長に渡り幅70mmで取付。
  2. 連結器・タイヤ側面・バネつり・ブレーキ引棒などを磨き上げて傷の発見を容易にするとともに装飾とした[4]
  3. 運転室前面裾部に国旗掲揚装置を取付るとともに、国旗掲揚用旗竿交差部分に竿を固定するための専用器具取付用のボルト2本を取付できるように加工[注 4]
  4. 運転室側面開閉窓下部に引き込み式の列車停止位置基準板を設置(運転室内から出し入れ操作を行う)。
  5. 自動連結器に上錠揚止装置(連結器の開錠防止装置)を取付。
  6. 製造当時に発表されたばかりの絶縁性の高いネオピレン樹脂被膜の電線を使用。(その後の車体機器更新・改良工事にてより絶縁性能の高い電気配線ケーブルに更新)
  7. 前後運転室間に連絡用の送話管(伝声管)を設置 [注 5]
  8. 確実な速度監視のため助士席[注 6]にも速度計及び運転時刻表挿しを増設[4]
  9. 電動発電機 (MG) 用界磁抵抗器を増設し、故障時の代替として切り替え可能に。
  10. 応急処置用の予備品箱と工具箱並びに予備非常時用器具箱を補機室内に用意。
  11. 各回路に予備回路増設
  12. お召列車運行時の添乗員用として[注 7]補助椅子の増設。
  13. 乗務する機関士・副機関士・担当区間を管理する鉄道管理局の機関車課長等の運転担当者の職務及び氏名を記載した名札を掲示するための乗務員札入れ
    乗務員名札入れ 写真は60号機のもの
  14. 供奉車との連絡用有線電話接続装備を1エンド側連結器右、2エンド側連結器左に設置 [注 8]
  15. 連絡設備
お召し列車編成内の供奉車(随行員・警備要員(通過区間を管轄する道府県警察本部長も乗車する)の乗車する車両)との連絡有線電話栓、および機関車前後の運転室相互間の伝声管を装備した。

また、両機に共通する新製時からの外観の変更点として多数公開されている写真等から、すぐにわかる部分だけをあげても以下の通り。[5]

  1. 前窓上部に水切りを取付(形状変更が数回されている)
  2. ワイパーの変更工事(KW3D→WP35→旧型WP50→改良型WP50と変更される)
  3. 運転室扉横の側面昇降梯子段の切込み改造を実施
  4. ATS関連の保安装備追設及び信号煙管・無線機用アンテナなどの新規取付
  5. 前照灯を150W単焦点型のLP400形から250W複焦点型LP402形(自動車のようにハイ・ローの切り替えが可能)に交換工事
  6. SG1吸排気ダクトがガーランド型から箱型ダクトに変更
  7. 車体前面窓下に作業員用のメッキ製手すりおよびステップの追設工事(国旗掲揚装置の邪魔にならないように切り欠き加工が行われている)
  8. 台車端前面部分に誘導員用のステップ及び握り棒の追設工事

が増備車の仕様変更に合わせてその都度追加されている。


さらに、両端の運転台前面には国旗掲揚器具[注 9]を装備し、EF58形の特徴である前面の飾り帯は磨き出しのステンレスとして車体側面全周を取り巻くデザインとしている。さらに区名札及び仕業札入れの横に乗務員札入れを装備した[注 10]。これはお召し列車牽引専用指定機および過去にお召運行を担当した車両を識別するポイントである[注 11] [注 12] [注 13]。塗色は、当初は60 61も他車と同じくぶどう色2号であったが、61は1966年3月より新1号御料車編成と釣り合う「暗紅色(ため色)」と呼ばれるお召し機専用色[注 14]とされた。ステンレス製の握り棒の移設(116が東京機関区へ1957年(昭和32年)3月に日本車両製造が「戦後初の国鉄電気機関車納入記念」として特別に装着されて納入・新製配置されたものを、61のお召装備の一つとするために116の握り棒を通常型と交換した[6]。このステンレス製誘導握り棒は、61のお召列車運行装備品として国鉄時代はお召し列車牽引時だけ装着されていたが、民営化後のお召列車運行後は常設となる。台車枠に取り付けされている部分に当該車両である「EF58 116]の刻印がされており、これからは東京総合車両センターの一般公開時に公開されれば確認できると思われる[7]。)

61は日立へ、60は東芝へお召し列車牽引専用機関車としての指名発注であるため両社は名誉を懸けて製造・点検・社内試験も入念かつ厳重に行われ、極めて良好な状態で国鉄に納入された。予算は一般の本形式より130万円高い6,300万円であったが、上記の特別仕様や製造工程により、両社ともに金額は不明ながら大赤字を覚悟の上で受注・製造をしたと伝えられている。両機は製造ロットでは第3次増備車として製造されているが、61の製造予定会社は本来は東芝に割り当てられていた、日立に割り当てられていた当該ロット最終番号は54であった。東芝が60を専用機関車に付与する予定にしていたため、国鉄本社の指示で連番となるように、東芝61 - 日立54の車両番号を交換して製造された経緯がある。そのため本来なら61になる予定であった車両はその後54として(1953年(昭和28年)7月12日東芝)落成したため53(1953年(昭和28年)5月28日 日立)・55(1953年(昭和28年)3月12日 東芝)より落成日が遅くなった[8]

61が初めてお召し仕業に充当された1953年(昭和28年)10月19日の逸話であるが、松山で開催される国体の開会式及び四国・岡山行幸に出発するため東京駅ホームでお召列車に乗り込む際に国鉄関係者から新製電気機関車の説明を受けた昭和天皇は、列車出発前の東京駅ホームで先頭部まで歩いて行き同機を間近に見たと引用文献及び注釈引用文献にて記載されている。機関車が(天皇自らの意向により)天覧に浴したのは希な事例である[9][注 15][10]。日立製作所が保存している写真には昭和天皇・香淳皇后夫妻が同機を御覧になる姿が残されている[11]

61が東京機関区、60が浜松機関区に分割配置された背景には、1953年(昭和28年)7月21日に東海道本線が名古屋までの延伸電化と、長距離走行に向かない構造で製造されていた時代でもあり[注 16]、東海道線全線電化以降は関西方面へはほぼ中間点に位置する名門機関区である浜松で機関車交換をし浜松所属の60が浜松以遠を担当する計画があったためとされる。

しかし、実際には落成後5年ほどは東海道本線でのお召列車運行時の上りと下りで両機を使い分けた。60単独の牽引に関しては、東海道本線における復路専用機関車としての導入直後の1953年(昭和28年)10月28日(この時は稼働状況に不安があったSG1は使用せず暖房車スヌ3122を機関車次位に連結[注 17][12]した)の名古屋 - 東京間から1958年10月27日の岐阜 - 東京間のお召列車牽引が本務機しては最後となる。この日以降60のお召列車本務機としてのけん引記録はない。その後は東海道新幹線開業までの東海道本線走行時は61が本務機、60が予備機とされ、蒸気機関車と異なり電気製品であることから定期的に絶縁破壊を防ぐための通電を行い、故障防止を兼ねて毎月数回は定期的に一般の列車牽引にも用いられた。

なお60の正規のお召列車けん引回数は5回、皇太子殿下(現上皇陛下)のご成婚に伴う伊勢神宮神武天皇陵参拝・ご報告に伴う、ご乗用列車のけん引が1回となっている(この他に、けん引予定だったが、天皇皇后両陛下の行動予定変更で飛行機での帰京となったことが2回あり、お召列車けん引ダイヤのまま随行員や関係者の輸送の為に1号編成を運転したことが引用文献では2回あることが明らかになっている)。また原宿宮廷専用ホームへの入線は1956年(昭和31年)11月2日の一回限りとなっている[13]

引用文献で本形式のお召列車けん引専用機製造計画に携わっていた当時の国鉄本社運輸局の西尾源太郎氏によると「両機ともお召専用機として発注したが、お召本務機の中心は61号機であり、60号機はお召本務機は努めるものの、その役割は補佐的なものとした」と語っていることが記載されている[14]

この他に、東京機関区では別に73を予備機に指定していた。なお運転席内部構造などは資料がなく詳細が不明(ただし供奉車との連絡電話設備があることは連絡電話連結栓が追設されていることから見ても確実である)であるが後述する172の整備指示書に記載されている内容の整備がされていたのではないかと推測されている。予備機指定解除後、宇都宮運転所に転属し一般色に変更の上一般列車の運用にあたった。73は60同様にぶどう色2号の塗色で、1エンド側連結器右、2エンド側連結器左に供奉車との有線電話連結栓を装備していた。東海道本線運行時は60がいるが、東北・高崎・上越線方面は各地の鉄道管理局において非常救援機を兼ねて73を含む本形式を待機させておくことが通例となっていた[注 18][15]

60と61の相違点として、主台車枠を初めとする細かな部分における作りの違いと車体長の違いがある。台車枠に関しては、従台車部分の主台枠に補強と車体へのブレーキシューと鉄粉や雨水などの飛散物を防ぐために二軸従台車上部に「先輪覆い」と呼ばれる部品が装着されているが、60は従輪ごとの分割式であり、61は従台車ごとカバーする一体型となっている[注 19]。車体長関係では、1956年3月31日付国鉄名古屋鉄道管理局報(乙)号外『1956年4月5日 名古屋鉄道管理局 お召列車けん引機関車寸法・機関車及び同乗務員運用』[16]によると、「(原文ママ)機関車前端りょうから後部自連[注 20]の連結面まで」EF5861 19,514ミリ、EF5860 19,560ミリ。「機関車に附した停止目標から後部自連の連結面まで[注 21]EF5861 18,640ミリ、EF5860 18,250ミリ」と記載されている[17]。これは、乗務員交代駅における乗務員待機位置及び天皇皇后両陛下への奉迎者に対する配慮のほか、御料車の乗降口に敷かれている絨毯に合わせるため、機関車の停止目標を設置する際に必要な数値であり、停車駅ではこれらの通達を基に停止位置表示板を設定していた(一部の停車駅では操車係が停車位置で旗を提示していることもあるが、原宿宮廷ホームではホームに停車位置表示線が書き込まれている)。

また本車両に限らず、お召列車けん引機関車には、所属区の研修担当者である技工長及び技工が後部運転室(電気機関車の場合)に添乗する規定になっている。『1956年11月2日運転 名古屋鉄道管理局:お召列車機関車運行・仕業』『1956年11月2日運転 名古屋鉄道管理局:米原機関区 お召列車予備機関車運行/お召機関車添乗者表』[18]には『お召機関車浜松区EF5860号の添乗者氏名』として浜区(浜松機関区の略称)技工長 ○○ ○○ 同技工 ○○ ○○ (米原 = 原宿間)と記載されている。当然ながら正機関士・副機関士・機関助士・SG担当機関助士[注 22]の名前が担当職務と共に記載されている[19]

両機はお召し列車運転時には運行が決まった時点で工場入場の上で車体の再塗装や搭載機器の入念な整備を行い、試運転の度に各部の機器を基準値に合致させる整備を行い、お召列車運行当日には、前面に国旗を飾り、御料車編成の牽引に充当された。

本務機の61は昭和天皇のお召し・ご乗用列車を100回以上牽引した[注 23][注 24]。その他、お召し列車が直流区間以外で運転される時の1号編成回送にも接続駅までは61が牽引に指名されることが多かった[注 25]

60は1967年5月、浜松で踏切事故の被害を受け2エンド側左台枠を折損した。また、東海道新幹線開業後は東海道本線でのお召列車運行回数も激減し、60の必要とされる運行も皆無となったため、1973年にお召し指定解除された後は一般機と同じ扱いとなり、車体塗装の変更は廃車までなかったが、一般機と同様に側面フィルタのビニロック化、正面窓小窓Hゴム支持化などの改修工事が施工されている。

1979年愛知県植樹祭関連行幸では予備機に指定され岡崎駅構内に待機の上、運行線区の一部であった愛知県植樹祭会場最寄駅となる岡多線(現・愛知環状鉄道線新豊田駅の単線行き止まり式配線(現在は全線開通に伴い2008年に複線化されており解消されている)の関係により機関車を付け替えることができない構造だったため、お召し運転の終了した61+1号編成の回送では、お召列車を後追いする形で走行してきた60を編成後部に連結し、1号編成前後に機関車を連結するプッシュプル形式運行を60が先頭の回送列車運行を61と行った[注 26]

その後、所属する浜松機関区が長距離運用を主に担当する機関区であったため、お召指定機解除後の一般機と同様の長距離走行による過走行による老朽化での故障や余剰車両の発生により、1983年5月18日付で廃車となり大宮工場へ回送の上、6月2日に解体された。浜松機関区所属のEF58の中では一番最初に廃車されたグループに属し解体は一番最初に行われた[19]

なお現在、同機の側面にあったナンバープレートと製造銘板[注 27]の片側および前面ナンバープレート部分を切り取ったものはさいたま市大宮区にある鉄道博物館に保管・展示されている。(もう片側は東海旅客鉄道の浜松運輸区にて非公開で保管されている)

61は60が廃車・解体された後も1号編成の牽引機として稼働を続け、1987年の国鉄分割民営化に際し、国鉄から東日本旅客鉄道(JR東日本)田端運転所へ承継された。国鉄時代の1980年代以降は新幹線網や航空機の発達により速達化が図られたため、直流電化区間における61による1号編成の牽引回数も減ってきたこともあり、「お召列車けん引指定機」という来歴を買われ、NIOE(ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行)を使用した「オリエントエクスプレス88」などのイベント・団体臨時列車の牽引機にも多く用いられてきた。2004年全般検査を終えてからも多くのイベント列車で運用され、特に2006年には10列車以上の牽引に充当された。2008年までは稼働可能状態で保持されていた。

61は東京機関区に新製配置されてから東京機関区の車両無配置化まで一貫して同区に配属されているが、無配置化での新鶴見機関区への移動、民営化による車両再配置による田端運転所への施設の廃止や運営会社の変更等の諸事情による、2度の移動歴を除くと、一度だけ東京機関区から正式に貸出されお召列車牽引時に他区所所属機関車としてその機関区の区名札を挿して運行されたことがある。これは1971年10月の和歌山国体開会式行幸啓に伴うお召列車運転時に際し同年10月23日 - 26日の間に竜華機関区にへの正式な貸出措置手続きが取られ竜華機関区所属機関車としてお召列車けん引をしている。

これは、本来は直流電化区間はどの線区であっても平坦線を中心に走行できる区間では回送も含めすべて61の自力運行で東京機関区の臨A1仕業と呼ばれるお召運用として行われる(ただし運行する機関士はそれぞれの線区を担当する線区を担当する機関区の正・副機関士)が、このときは回送の途中線区に非電化の貨物線区間が存在したため自力での直通運転ができず、吹田(操)-竜華操車場間(現在のおおさか東線を含む区間)をディーゼル機関車による回送が必要だったことから、国鉄本社が本運用含む全線自走またはパンタグラフを上げての走行[注 28]をすることとの原則に反するとして、この間のみ東京機関区から竜華機関区への貸出手続きが行われた。 このため、61の車両履歴簿所属移動歴は東京区新製配置⇒竜華区貸出⇒東京区返却⇒(東京区車両無配置化のため)新鶴見区異動⇒(民営化による管理会社移管のための)田端所異動の記載となる。[20]

しかし平成に入ってからはお召し列車の運転回数も減少[注 29]し、21世紀に入り本来牽引すべき御料車の一号編成客車ともども老朽化が進行していたため、平成時代に入ってから61がお召し列車の牽引に用いられたのは延べ4回(往復はそれぞれ片道を1回とする)[注 30]だけである。そして、速達化と老朽置き換えを目的として2007年に一号編成の後継車両となる電車形式のハイグレード車両(E655系電車)と特別車両(E655-1)が落成したことにより61と1号編成客車の本来の役目を譲る形で、お召し列車牽引活動に終止符を打った。2008年には、経年劣化による金属疲労で主台枠に亀裂が生じてしまい、単独走行は出来るものの車両を牽引しての運転が不可能となった。これらの事情から勘案し、61号機は同年秋に現役を退いた[21]

現在、同機は東京総合車両センターの御料車庫に保管されている。書類上は2018年(平成30年)4月1日現在も廃車になっておらず、保留車として田端運転所に在籍している[22]。同センターが一般公開される日には屋外に展示されることがあり、2010年及び2018年に展示されている[23][24]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1984年に社名改称。
  2. ^ EF58形は全車軸がローラーベアリングを用いており、長距離高速度運転に適した設計である。
  3. ^ 現在まで日本の鉄道で唯一の事例である
  4. ^ その後の改修工事により、運転席前面窓下にメッキ加工の手すり及び作業用踏み板等を追加されるが、旗竿受けの部分が踏み板より下の車体裾部にあるため旗竿が干渉する部分に関しては、切り欠き加工を行っている。
  5. ^ 後部運転室には、61は東京機関区の、60は浜松機関区の検修担当二名が行路の全行程に必ず添乗し、不測の事態に備えていた。
  6. ^ 電気機関助士が乗務していた頃は通常三名の乗務員が運行にあたるが、お召列車の運行時は副機関士がこの席に座り安全確認等を行う、のちに電気機関車への機関助士制度は廃止になり正・副機関士のみが運行に携わるようになる。
  7. ^ 運転する鉄道管理局の機関車課長、運行課長および担当機関区の指導主任機関士が添乗することが通例であった。なお管理局長は編成内の供奉車に乗車する
  8. ^ 車両のエンド(前後の向き)を一致させる必要があるため、運用の都合や工場入場時に合わせて頻繁に転車台にて方向転換していた。
  9. ^ 前面のステップ(後年新規取付)を切り欠き専用の竿受けを常設、竿が交差する部分に固定金具を装着する専用金具用固定ボルトを増設。
  10. ^ 正機関士・副機関士・運転責任者となる鉄道管理局の機関車課長もしくは運行課長の名札を挿して運行する。
  11. ^ ステンレス鋼の飾り帯は電気機関車ではEF58 60・61が唯一であり、ディーゼル機関車ではDD51 842(高崎車両センター所属)などがある。
  12. ^ 若潮国体1973年10月)が開催された際にランボード下にステンレス帯を設置されその後一度白で塗りつぶされたが民営化後に、宮城県で運行された1号編成によるお召し列車運転の際に非電化区間の実質的な専用機として扱われ、車体の手すりや連結器開放てこ、煙突カバーなどにステンレス鋼で作成されたものが随所に使用されており、現在はE655系が非電化区間に乗り入れする場合の指定けん引機とされている。
  13. ^ 他車の場合は運行担当機関区でデザインした塗装を行う。白色側面帯(EF64 77 ED75 121など)もしくは銀色テープ側面帯 (EF81 81) など。
  14. ^ 新1号御料車編成に合わせて大宮工場(民営化後は東日本旅客鉄道大宮総合車両センター日本貨物鉄道大宮車両所に職能に合わせて分割継承)が独自に調合したもの専用色である。ぶどう色2号に赤を混ぜた特別色。ちなみに定期検査の担当工場は製造時からは浜松工場が担当していたが、この時点から61は大宮工場に担当が変更され、その名残からJR移行後も定期検査およびお召し列車運転前の整備は大宮工場の機関車部を引き継いだ日本貨物鉄道(JR貨物)大宮車両所に委託していたが、現役最後となる2004年の全般検査は委託解消により、東日本旅客鉄道土崎工場現在の秋田総合車両センターにて施工。大宮時代より赤みが強いため色で出場している。そのため現在保存されている同車の塗装は往年の「ため色」とは異なる。
  15. ^ 『昭和天皇実録 第11』、宮内庁編東京出版刊 巻四十(昭和二十八年)昭和28年10月19日 (pp. 603-604) には『(前略)第八回国民体育大会秋季大会に御臨場(注・本大会は愛媛、香川、徳島の三県での分散開催となる。開会式は愛媛県松山市にて行われた)、併せて四国各県並びに岡山県下の社会事業等をご視察のため、二十八日まで各県に行啓される。午前八時皇后とともに御出門になり、東京駅ホームにて日本国有鉄道工作局長笹山越郎の説明により、去る七月製造された新しい御召列車専用電気機関車 EF五八六一を御覧になる。終わって東京駅を発車。(以下略)』と記載されている。当時は東京駅9時発の特急「つばめ」を先行&指導列車とすることを恒例としていた事から、東京駅9時10分発と思われる。
  16. ^ 本形式導入以前の電気機関車牽引お召列車は、必ず緊急時安全対策の意味合いも含め電気機関車牽引の場合は重連で運用されていた。また長距離牽引は電化進捗状況の関係で、短距離・近郊だけで運用されていた時代でもある。電気機関車が単機でお召列車を牽引することは本形式が初めてとなる。
  17. ^ 新機軸の蒸気暖房用ボイラーということもあり、初期不良や水管破損・ボイラー点火不能、運転未熟等による故障での列車暖房停止トラブルが相次いでいたため、お召列車運行時の故障・トラブルでの編成内暖房使用不能と言う事態を避け、万全を期すという理由で翌年までの冬季運行時には暖房車を使用することとなる。
  18. ^ 1983年10月に運行された「群馬国体」時のお召列車運行時には高崎第二機関区(現・高崎車両センター)所属のEF58 130が日章旗を準備して非常予備機として高崎第二機関区にて待機していた(ただしこの時の130は車体整備はされておらず普段のままの状態で日章旗のみ提示した状態であった)。
  19. ^ EF58形では、そのほかにも車体屋根の曲線率や車体前面の飾り帯の接合方法などに細かな造作の違いがみられるが、これは製造メーカーごとの違いとして識別点に挙げられる特徴でもある。
  20. ^ 自動連結器の略称。
  21. ^ 停止目標に関しては1954年9月の定期検査の際に乗務員から視認しにくいとの理由で、両機ともに前方に420ミリ移動させる工事や第4次増備車から装備されるようになった誘導握り棒の取付、誘導踏段取付工事が併せて施行されている。
  22. ^ 当時の東海道本線の車内暖房使用期間は10月20日 - 翌年5月10日であった。
  23. ^ 変わったところでは、若潮国体1973年10月)の際には原宿 - 新宿間の往復のみという短区間の牽引を行なった事がある(新宿駅での線路の構造上、進行方向が前後するスイッチバックが必要である事と当時の千葉県内の国鉄線では非電化区間があるため、それを考慮して新宿駅以東はDD51 842が通しで牽引した)。
  24. ^ 『昭和天皇実録』では運行されたお召し列車の形式が記載されている場合がある、一部には車両番号の記載があるため今後61の牽引回数の解明、EF58と記載があれば61と判別できる、また発着駅が記載されているため直流区間での公式行事関連での運行記録を参照することも可能である)についても同書の刊行が進み、関連した記載のある書籍などや国鉄内部通達書類の研究などで進んでいくと思われると言われる。
  25. ^ 保安要員と検修担当および車掌は回送でも乗車しているため連絡電話装備を搭載している同車はいわば便利な機能を有している関係と専用機である以上回送も担当すべきという考えからである。
  26. ^ このお召専用機同士が回送列車ではあるが、編成前後であっても同時に1号編成に連結して運転されたのはこの時だけである。
  27. ^ 理由は不明だが「製造」の文字ではなく「改造」(指名発注を受けた時点においてすでに見込み生産車両として、当該車体が完成しており、改めて御召列車運転用特別仕様装備のための改造作業を行ったためとも言われている)の銘板が使用されており、今でも「改造」銘板の使用理由の真偽を調査する動きがある。
  28. ^ 補機使用時はパンタを上げて走行するが架線がないために自走ができない事、万が一パンタグラフが上がってしまうと伸び切ってしまいトンネルや上部構造物に接触する危険性があり、パンタグラフを下ろし固縛した上での完全無動力での回送を強いられた
  29. ^ 国鉄時代、昭和天皇の時代はは全国植樹祭および秋の国体開会式は「天皇の二大行幸啓行事」として正式なお召列車が運行される決まりになっていた。現在の上皇は「列車での移動は規制や警備などで周囲に迷惑がかかる」として極力『三大行事(従来の「全国植樹祭」、「国民体育大会開会式」、現在の上皇が昭和天皇の皇太子時代に出席するようになった「全国豊かな海づくり大会」』ではJR東日本管内(E655系特別列車を使用する)や国賓が希望された場合などの国賓接遇での運行以外では新幹線や飛行機で移動し御料自動車で目的地に向かうことが大半である。
  30. ^ 1996年10月24日両毛線小山 - 足利間(往復)、1999年4月8日中央本線大月 - 山手線原宿宮廷専用ホーム)間(片道)、2001年3月28日東海道本線東京 - 横須賀線北鎌倉間(片道)。

出典

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  1. ^ 『電気機関車EX』第4巻、イカロス出版、2017年8月25日、31頁。 
  2. ^ 『電気機関車EX Vol.05』 2017年 イカロス出版 『連載 蘇るEF58全172両』より落成日を引用
  3. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「RP394p99」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  4. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「RP394p100」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  5. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、24 - 49頁。 
  6. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、31頁。 
  7. ^ 交友社発行「EF58ものがたり」鉄道ファン編集部編
  8. ^ イカロス出版刊『電気機関車EX』Vol.04 2017年。Vol.05 2017年「連載 蘇る EF58 全172両」写真永井美智雄 解説伊藤久巳の落成・廃車年月日記載部分より落成日を引用。
  9. ^ 交友社刊『EF58ものがたり』による。
  10. ^ 星山 一男著 鉄道図書刊行会 1973年『お召列車百年』
  11. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、27頁。 
  12. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、11 - 23頁。 
  13. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、32 - 33頁。 
  14. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、26頁。 
  15. ^ イカロス出版刊 2010年刊 『機関車ハンドブック 直流機関車のスタンダード EF15×EF58 昭和50年代の記録 pp. 54-55
  16. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、21頁。 
  17. ^ 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、28頁。 
  18. ^ 10月20日 名古屋鉄道管理局報(乙)号外・3765号による、氏名省略伏字とする
  19. ^ a b 『電気機関車EX』第11巻、イカロス出版、2019年5月25日、12頁。 
  20. ^ 交友社発行「EF58ものがたり」鉄道ファン編集部編
  21. ^ 東日本旅客鉄道鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
  22. ^ 『電気機関車EX』第4巻、イカロス出版、2017年8月25日、31頁。 
  23. ^ 東京総合車両センター一般公開『2010 夏休みフェア』開催”. 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース (2010年8月28日). 2011年7月3日閲覧。
  24. ^ 『Rail Magazine』第35巻第11号、ネコ・パブリッシング、2018年11月1日、58 - 59頁。