利用者:TRAMPJP/下書き:一
隘路の戦い | |||||||
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ムスリムのトランスオクシアナ征服戦争中 | |||||||
8世紀頃のマー・ワラー・アンナフル周辺の勢力図 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ウマイヤ朝 |
突騎施 (ハンと周辺部族の連合) | ||||||
指揮官 | |||||||
ジュナイド・イブン・アブド・アルラーマン・アルムリー サウラ・イブン・アルハール・アルアバニ † | 蘇禄 | ||||||
戦力 | |||||||
40,000以上 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
20,000 (Ibn A'tham), 25,000–30,000 (Blankinship) | 10,000 (Ibn A'tham) |
隘路の戦い( Battle of the Defile 又は Battle of the Pass )(アラビア語: وقعة الشعب)とは、現在のタフタカラチャ峠にてウマイヤ朝の大軍と突騎施・現地のトルコ人部族・ハン連合軍とが、731年6月の3日間に渡り戦った戦闘である。突騎施は当時ウマイヤ朝に治められていた中央アジアの都市サマルカンドを包囲し、ウマイヤ朝側のサマルカンド守備隊長であったサワラは同じくウマイヤ朝のホラーサーン総督であったジュナイドに対して救援要請を送った。ジュナイドは28,000強の軍勢を率いてサマルカンドに進軍したものの、途中のタフタカラチャ峠にて突騎施らの奇襲にあってしまう。ウマイヤ軍はなんとかその場を切り抜けサマルカンドに入城することができたが、約12,000のウマイヤ兵は本隊を救うために側面から突騎施軍に突撃し、全滅したとされる。
The battle, for which one of the most detailed accounts of the entire Umayyad era survives in the History of en:al-Tabari, halted or reversed Muslim expansion into en:Central Asia for a decade. the losses suffered by the Khurasani army also led to the transfer of reinforcements from the metropolitan regions of the Caliphate, which in the long term weakened the Umayyad regime and helped bring about its collapse twenty years later.
背景
[編集]当時のマー・ワラー・アンナフル(=中央アジア南部のオアシス地域)は、ワリード1世の治世のウマイヤ朝により、イスラム教徒を信仰するアラブ人によってペルシア、ホラーサーンに続いて7世紀中頃に征服されていた[3]。しかし、この地域に住むイラン人やトルコ人などの現地人や自治を許されていた現地の統治者たちはムスリムに対して反抗的であり、ウマイヤ朝にとって危険な存在となっていた。そして719年、現地の人々は当時の中国を治めていた唐やその属国である突騎施(トルコ人部族)に軍事的支援の要請をし、ウマイヤ朝に反抗しようとした[4]。それを受けて突騎施は720年にウマイヤ朝に対して攻撃を開始し、また現地のソグド人らもウマイヤ朝カリフに対して宣戦布告をした。しかしながらこの反乱は失敗し、ウマイヤ朝ホラーサーン総督により凄惨極まる討伐が実施されて鎮圧された。だが724年、ホラーサーン総督が代替わりし、ウマイヤ朝がフェルガナに侵攻している最中に、再び反乱が起こってしまう[5] [6]。それから数年間、マー・ワラー・アンナフルにおいて、ウマイヤ朝守備兵は削減され、現地の有力者を懐柔し、マーワリーを廃止することでなんとか民衆の反発を抑えることができた。しかしこれらの政策はウマイヤ朝からすると誠に不本意であったことから長続きはせず、取り止めてしまう。これらのアラブ人の手荒な行動により、現地の民衆たちの心は再び離れていってしまった。そして728年、大規模な反乱が再び発生し、それと同時に突騎施がウマイヤ領に侵攻した。これがきっかけでウマイヤ朝はサマルカンド周辺を除いた、マー・ワラー・アンナフルの大部分を放棄した[7][8]。
時は流れて、730年代前半、マー・ワラー・アンナフルにおけるこの状況をなんとか打破しようとした当時のカリフであるヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクはホラーサーン総督に新たにジュナイドを任命した。ジュナイドは経験豊富なアラブ人軍人であり、任命される直前にはシンドにおいて現地部族との和平交渉を成功させていたため、その経験を買われてこの地に派遣されたのだった。ジュナイドが総督に任命された頃のマー・ワラー・アンナフルの状況は非常に危険な状態にまで悪化しており、ジュナイドがアムダリヤ川を渡河したのち任地に向かう途中、護衛に7000もの兵士をつけて進軍しなければならなかったことからもその程度が読み取れる。結局ジュナイドは前ホラーサーン総督の軍団と合流するべく進軍していた矢先、突騎施や蘇禄らトルコ人に襲撃されている。ウマイヤ軍とトルコ人連合軍は乱戦を繰り広げ、ジュナイドとその護衛たちはなんとか襲撃から脱出し前総督軍と合流することに成功した。前ホラーサーン総督であるアシュラス・アル・スラミは729年に激しい戦闘の末、ブハラ手前までアラブ人勢力の拡大に成功しており、また突騎施がサマルカンドに向けて北に撤退していたことから、ジュナイドらはすぐにブハラとソグディアナの大半を奪還することができた。ウマイヤ軍は突騎施の後を追い、サマルカンド付近にてトルコ人らを打ち破った。ジュナイドはその後、自身の軍を冬の間だけマルブまで撤収させた[9]。[10]。しかしその冬の間に、今までムスリムの支配下に収まっていたはずのバクトリア(アムダリヤ川南側の地域)にて反乱が勃発したため、ジュナイドはバルフまで進軍したのち自身の28,000の軍勢を小分けにしてバクトリア地方の反乱を鎮圧にあたらせた。しかしこの反乱鎮圧作戦によりジュナイドの周りには少数の部隊しか残っていなかった。そして、まだ作戦途中だった731年初期ごろ、突騎施の軍勢がサマルカンドを包囲し、サマルカンドの守備隊長から援助の要請がジュナイドのもとに届いたのだった。ジュナイドは自身の配下にいた手練れの武将らから『自身の軍勢(大半が反乱鎮圧のために分散していた)が再集結するのを待ってから援軍に赴くべきであり、50,000の軍勢がなければアムダリヤ川は渡河するべきではない』と助言を受けていたものの、ジュナイドは少ない手勢だけを率いて直ぐにサマルカンドの救援に向かうという決断を下したのだった[11][12][13]。
戦闘
[編集]進軍
[編集]ジュナイドは、ブハラの東側からサマルカンドにかけて続く古代ペルシアの王の道に沿って進軍しようとしたものの、突騎施がその街道を押さえていたために通行できず、サマルカンドから南に70キロの地点にあるシャフリサブスという町に軍を率いて入城した[14] 。シャフリサブスにて彼の斥候部隊から、突騎施がウマイヤ軍の進軍経路上にある井戸を破壊しようとしている、との情報を得た。ジュナイド軍の参謀たちは当初、ザラフシャン山脈の西側にひかれている街道に沿って進軍する計画を立てていた。しかし、ホラーサーンの領主の1人がこの計画に反対した。なぜなら参謀らが勧めていた経路の脇には未開拓の草原が広がっており、また騎馬民族である突騎施にとって草原に火をかけることは容易い事であるため、この草原に火をかけられては大損害を被りかねないと考えたからであった。ホラーサーンの領主、アル・ムジャシュシルは、ほかの参謀が勧めるルートに比べより直線的で、また険しいものの2キロほど距離も短いタフタカラチャ峠を超えるルートをジュナイドに推奨した。しかしこのルートは突騎施の奇襲を受けやすいという欠点もあったが[14][15][16]、ジュナイドはムジャシュシルの案を採用し、隘路の前に軍営を張った。しかしこのような決定は、ジュナイドを部外者として信用していなかったホラーサーンに居住するアラブ人たちからなる自信の軍勢から不評を買った[注釈 1]
古くから続いていたアラブ人部族間の関係摩擦がジュナイドの決定なより再燃し、アラブ軍の中には軍務を放棄して脱走する兵士もいたが、ジュナイドはくじけることなく28,000の自軍を率いて進軍した[14][16][19]
それから続く出来事の詳細はタバリーが記した歴史書預言者と王の歴史に記されている。(ちなみにこの歴史書はこれより前に記されていたアブールハサン・アルマダイニという歴史家が記した歴史書に基づいている。) [14] 結果的にこの紛争は、歴史家カリード・ブランケンシップを『ヒシャームの治世において最も詳細に記録されている事件である。』と言わしめている[20]。
タフタカラチャ峠にて遭遇することとなる、ウマイヤ・突騎施両軍は全く異なる軍事体系を持っていた。ウマイヤ軍は、大規模な騎馬隊(軽騎兵と重装騎兵を共に含む)を擁していたものの[21]、主力は歩兵隊であった。戦闘において、アラブ騎兵は序盤の小競り合いにて用いられ、その後は下馬して歩兵として戦うという戦法がセオリーであった[22]。これと比較して、典型的な中央アジアの遊牧国家である突騎施は軍の大部分が騎兵で構成されおり、この騎兵は、特に騎馬弓兵において、類稀な戦闘技術を有していたためアラブ人にとって非常に脅威となっていた。彼らは機動力に優れ、陽動作戦や奇襲、そして偽装退却といった戦法を得意とし、動きの鈍いアラブ軍を翻弄した[23][24]。歴史家のユーグ・N・ケネディーはこう記している。
『遊牧国家の[突騎施]が現地のイラン人らと同盟を結んだとき、初期のムスリム軍はおそらくこれまでに遭遇したことがないほどの猛烈な抵抗を目にしたであろう。』[25]
突騎施の襲撃(1日目)
[編集]突騎施は、ソグディアナ・サッシュ・フェルガナの統治者たちからの援助の下、ウマイヤ軍に奇襲を仕掛けた。ウマイヤ軍は2日前にキシュを出発したばかりであり、サマルカンドから約24km(6パラサング)離れたところで食事のために一旦進軍を停止させているところであった。アラブ人の軍人:ウトマン・イブン・アブダラ・イブン・アルシィクカ率いるアラブ軍前衛は突然の奇襲により大混乱に陥ったが、ジュナイドは大慌てで主力軍を展開させ、配下のアラブ人部族らの協力の下軍勢を配置した。バヌ・タミン族とアズド族は右翼に布陣し、ラビアン族は左翼に布陣した。アラブ人は、自身の軍勢の前に土塁を掘り、また、戦闘序盤にて、アラブ軍左翼に突撃してきた突騎施軍を追い返した。
ジュナイドは自軍の中央に布陣して戦闘に直接関わったのち、ジュナイドに対して敵意をあらわにしていたアズド族の戦列に加わった。アズド族の旗手はジュナイドにこう言ったと伝わっている。
『もし我々が勝利すれば、戦功はあなた(=ジュナイド)のものになるだろう。しかし我々が負ければ、あなたは私たち(=アズド族)のために涙を流すことはないだろう。私の人生において、この戦に勝ち、生き延びたとしても、決してあなたと話すことはないだろう。』
タバリーは、この旗手と彼に続く17人の旗手はこの戦闘で全員戦死したと報告おり、戦闘が激しかったことを伝えている。アラブ軍は序盤は騎乗して突騎施と戦っていたが、アラブ側の損害が増えてきたことでジュナイドの伝令は下馬して歩兵として戦うよう命令し、塹壕に身をかがめ、槍衾を以って突騎施の騎兵に対抗した。この戦法でムスリム軍はその地を死守することができ、最終的には両軍共に疲弊したことでその日の戦闘は物別れに終わった[26][27][28]。この戦闘に於いて、最も特筆すべきアラブ側の被害は、アラブ兵の落伍者とアラブ軍後方の補給戦の損害である。アブダラ・イブン・ムアマール・イブン・スマヤー・アルヤシュクリ率いる補給部隊はキシュ近郊に集結していたが、この戦闘中に事実上全滅したとされる[29][30]。
戦闘(2日目)
[編集]次の日、突騎施は再びアラブ軍に攻撃を仕掛けたが、今回は撃退された。アラブ軍は突騎施が自軍の近辺を移動している際に頻繁に奇襲を仕掛け、それに対抗して、突騎施のハーンはアラブ軍の軍営を襲撃することなく包囲した[29]。序盤の猛烈な突騎施からの攻撃をずっと耐え続けたジュナイドはサマルカンド突騎施に守備隊長のサワラに伝令を送り、サマルカンドから打って出て突騎施に攻撃し、突騎施の気を逸らすよう命令した。サワラとサマルカンド守備兵は、この命令は実質的には特攻命令だとして最初は乗り気ではなかったが、ジュナイドの脅迫じみた命令により、この作戦に従わざるを得なかった。少数の守備兵を残して、サワラは12.000の兵を率いて、現地の案内人を伴ってサマルカンドから出撃し、山を越えて進軍し、ジュナイド軍から約1パラサング離れた地点に到達した[30][31][32]。
しかし、サワラの軍勢はこの地で、ソグディアナ人のサマルカンド王であるグラクの助言を受けた突騎施の軍勢に行手を阻まれ、周辺の乾いた草原に火を放たれてしまう。サワラ軍の司令官はサワラに対して、槍衾を以って歩兵をゆっくりと前進させるというウマイヤ朝が対騎兵戦術としてよく用いる戦法を進言した[33]。しかし、サワラは自身の軍勢が疲弊しており士気も低いことを理解していたため、突騎施軍に向けて騎兵部隊を突撃させ、突騎施軍の一部を打ち破ってジュナイド軍と合流しようとした。
There he was confronted by the Türgesh, who, reportedly on the advice of en:Ghurak, the Sogdian king of Samarkand, set fire to the dry grasslands. Sawra's lieutenants advised a slow infantry advance fronted by a spear-wall—the standard Umayyad anti-cavalry tactic[33]—but Sawra, knowing his troops to be weary and desperate, decided instead to launch a cavalry charge against the Türgesh in the hopes of breaking through with at least part of his force and reaching Junayd. Sawra's troops, "maddened by heat and thirst" in the description of en:H.A.R. Gibb, charged the Türgesh and broke their front, but the battle soon became a confused affair with both sides hindered by the smoke, dust, and flames. In the end, the Umayyad army lost its cohesion, scattered, and was destroyed piecemeal by the Türgesh cavalry. All but a thousand of Sawra's force perished, including Sawra himself.[30][32][34][35]
Junayd used the diversion to break through to Samarkand, but as his army exited the defile, his officers persuaded him to make camp and spend the night there instead of making for the city. The advice proved sound, as the Türgesh caught up with them and would likely have annihilated Junayd's army on open ground. As it was, the camp's fortifications could not be completed before the next day, when the Türgesh renewed their attack. At this point, the Arabs were so hard-pressed that Junayd promised the army's slaves their freedom if they would fight. Many did so, using en:saddle blankets as armour. The Türgesh attacks were repelled, and despite its heavy casualties the Umayyad army reached Samarkand after almost three days of battle.[35][36][37]
Aftermath and impact
[編集]Junayd remained in Samarkand for about four months, until October 731, allowing his army to recover. The Türgesh meanwhile made for Bukhara, which they besieged. Junayd again resolved to meet them in battle, and managed to inflict some defeats on the Türgesh in early November and raise the siege of Bukhara, which he entered on the day of Mihragan. Junayd then returned to Merv, leaving a token garrison of 800 men behind in Samarkand. Once the Türgesh had withdrawn north for the winter, he evacuated the city of its Muslim inhabitants.[38][39]
Although Samarkand was relieved and the Umayyad army escaped annihilation, the battle "was not wholly an Arab victory", according to the historian M. A. Shaban.[1] According to Khalid Yahya Blankinship, it was "a Pyrrhic victory at best",[2] due to the high casualties suffered by the Muslims; indeed, the sources record both Junayd and the Caliph Hisham publicly equating it with the disastrous defeat suffered at the hands of the Khazars in the Battle of Marj Ardabil a year before.[40] The 10th-century historian Ibn A'tham al-Kufi puts the Muslim casualties at at least 20,000 out of a total of 43,000 or 48,000, while poets of the time raise the number to 50,000. Judging by the numbers of replacements ordered sent to or levied in Khurasan in the aftermath of the battle, Blankinship estimates the Arab losses at between 25,000 and 30,000, and that "probably not more than fifteen thousand Khurasani troops were left alive".[41] Although the Türgesh also suffered heavy casualties—Ibn A'tham gives the unverifiable figure of more than 10,000 dead[42]—the Arab losses at the Battle of the Defile led to a rapid deterioration of the Umayyad position in Central Asia. Junayd remained as governor of Khurasan until his death in early 734, but by this time the Muslims had lost control of everything north of the Oxus save for Bukhara, Kish, and the region of al-Saghaniyan.[43]
To make up for the losses and shore up the depleted army of Khurasan, the Umayyads were forced to resort to mobilizing some 20,000 Iraqis and sending them to Khurasan, a potentially very dangerous move and a sign of desperation.[44] The Iraqis were notoriously hostile to the Umayyad regime, and had been demilitarized and subject to virtual occupation by Syrian troops since c. 700.[45] Junayd was forced to levy 15,000 native troops to deal with the emergency.[40][46]
The events during and after the battle increased Khurasani disaffection with the Umayyad regime and its representatives, as exemplified by the words of the Azdi standard-bearer to Junayd. Al-Tabari also reports the words—albeit possibly a later addition—of another Khurasani to Junayd before the battle: "It used to be said that certain of the troops of Khurasan would perish at the hands of a luxury-loving man from the Qays. We now fear that you may be he". According to Blankinship, these passages, as well as poems disparaging Junayd's leadership, are an eloquent testimony to the Khurasanis' frustration at being "forced to fight continuous, unrewarding campaigns for the benefit of vainglorious generals on one of the caliphate's worst fronts, by a central government whose special Syrian army had not hitherto, in the Khurasanis' opinion, faced similar hardships".[35][47] Blankinship observes that
「 | after the Day of the Defile, many Khurasani tribal surnames never again appear as part of the army in Khurasan, leading one to suppose they had been annihilated or their men had given up fighting. Some Khurasani troops remain, of course, but their divisions are now paralleled by Syrian ones. Thus it appears, particularly from Tabari's emphasis, that the Day of the Defile was practically a turning point in the war with the Turks, at least as far as the Khurasanis were concerned [...]."[2] | 」 |
The subsequent period in Khurasan was turbulent, revolts and anti-Umayyad agitation among the local Khurasani Arabs necessitating the introduction of 20,000 Syrian troops into the province as well as the Iraqis sent in after the Battle of the Defile. Only in 739–741, after the Türgesh Khaganate collapsed following the murder of its leader Suluk, was the new governor of Khurasan, Nasr ibn Sayyar, able to largely restore the Caliphate's position in Transoxiana He extended Muslim control to Samarkand again.[48][49]
In the aftermath of the setbacks at the battles of the Defile, Marj Ardabil, and other similar disasters, the Umayyad government was forced to take urgent measures to reinforce the buckling frontiers of the empire. As the defeats also increased the bitterness and reluctance of the local frontier armies to campaign, the caliphs were left with little choice but send out detachments of the trusted Syrian army to the threatened fronts. This move proved doubly destabilizing for the Umayyad regime: the introduction of the Syrians in the frontier provinces further alienated the local troops, who saw their hitherto privileged position being threatened by the regime's favourites; while the parcelling out of the Syrian army to distant areas, and the losses it suffered, weakened the dynasty's main power base. This would be the major factor in the fall of the Umayyad Caliphate during the civil wars of the 740s and the subsequent Abbasid Revolution, which began in Khurasan.[50][51]
Footnotes
[編集]- ^ The Umayyad army in Khurasan was mostly composed of Arabs settled there from Iraq in c. 665/6and their descendants, who retained their tribal organization. As an exclusive warrior caste they were jealous of their privileges, and for a long time restricted the number of natives allowed to take up arms, apart from the forces provided by allied native rulers. In c. 715, according to al-Tabari, next to 47,000 Khurasani Arabs there were only about 7,000 native converts (en:mawali). Cases of the recruitment of 10,000–20,000 native levies are reported in the following decades, but it appears that these were not permanent additions to the army, but rather auxiliaries recruited for specific campaigns or emergencies.[17][18]
References
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- ^ Blankinship 1994, pp. 176–185.
- ^ Kennedy 2007, pp. 289–293.
- ^ Blankinship 1994, pp. 7–8, 157, 223ff., 230–236.
- ^ Kennedy 2001, pp. 47–51.
Sources
[編集]- Blankinship, Khalid Yahya, ed. (1989). The History of al-Ṭabarī, Volume XXV: The End of Expansion: The Caliphate of Hishām, A.D. 724–738/A.H. 105–120. SUNY Series in Near Eastern Studies. Albany, New York: State University of New York Press. ISBN 978-0-88706-569-9。
- Template:The End of the Jihad State
- Template:The Arab Conquests in Central Asia
- Template:Kennedy-The Armies of the Caliphs
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- Shaban, M. A. (1979). The ʿAbbāsid Revolution. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-29534-3