利用者:Syadosa/sandbox/弾正台
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この項目では官庁としての弾正台のほか、官名・称号としての「弾正」についても記述する。
弾正台(残骸)
[編集]弾正台(だんじょうだい、彈正臺)は、律令制下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持などを主要な業務とする官庁の一つで、古代に存在した律令体制における監察・警察機構である。唐名は、御史台(ぎょしだい)、憲台(けんだい)、霜台(そうたい)、粛正台(しゅくせいだい)、正台(せいだい)など。
概要・沿革
[編集]弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりであり、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。官舎は皇嘉門付近にあった[1]。行政官・立法官である太政官の影響を受けないよう独立した監察機関として設置されたが、実際は太政官の因事管隷のもと、充分機能した例は少なく、裁判権・警察権も刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。嵯峨天皇時代に令外官として検非違使が創設されて以来、徐々に権限を奪われ有名無実化した。
長官・吏員
[編集]長官は弾正尹(だんじょうのいん/だんじょうのかみ)で従三位相当官。機能を喪失するとともに親王が任ぜられることが多く弾正尹宮などと呼ばれた。また大納言が兼帯することもあり、尹大納言などと言われた例がある。なお、単に弾正と称した場合には弾正台の職員を指す。
四等官として、
- 尹(いん / かみ 唐名:御史大夫、御史尚書) - 1人
- 弼(ひつ / すけ 唐名:御史中丞)
- 大弼(だいひつ / だいすけ) - 1人
- 少弼(しょうひつ / しょうすけ) - 1人
- 忠(ちゅう / じょう 唐名:侍御史)
- 大忠(だいちゅう / だいじょう) - 1人
- 少忠(しょうちゅう / しょうじょう) - 2人
- 疏(そ / さかん 唐名:御史録事、御史主簿)
- 大疏(だいそ / だいさかん) - 1人
- 少疏(しょうそ / しょうさかん) - 2人
がある[1]。その下には台掌(だいしょう)、巡察弾正などの役も置かれた[1]。
弾正尹の辞令(宣旨)の例
[編集]「薩戒記」
從二位行權大納言藤原朝臣定親
正二位行權大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保宣
奉 勅件人宜令兼任彈正尹者
嘉吉三年六月十五日 大外記中原朝臣師郷奉
(訓読文)従二位行権大納言藤原朝臣定親(中山定親 43歳)
正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使藤原朝臣公保(三條西公保 46歳)宣(の)る
勅(みことのり 後花園天皇 25歳)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく弾正尹を兼任せしむべし者(てへり)
嘉吉3年(1443年)6月15日 大外記中原朝臣師郷(押小路師郷 57歳 正四位下)奉(うけたまは)る
任官・自称した人物
[編集]前近代の日本で「弾正(尹・大小弼・大小忠)を名乗る人物には、朝廷から弾正台の四等官として正式に任命された公認の称号もあれば、そうでない非公式な自称もある。
- 公家・皇族
為尊親王は弾正宮と呼ばれ、源仲国は弾正少弼であった[1]。また、幕末に朝廷の中心人物の一人であった中川宮朝彦親王は、二品弾正尹に任ぜられ尹宮(いんのみや)と称された。
- 戦国大名・武将
「弾正」を称した戦国大名では、当主が代々「弾正忠(だんじょうのちゅう / だんじょうのじょう)」を自称した家系である「織田弾正忠家」出身の織田信長の場合、『歴名土代』に「織田弾正忠、平信長」と記載があり、朝廷に公認された官職である。松永久秀も永禄3年(1560年)弾正少弼に任命されていることが歴名土代で確認できる。上杉謙信は天文21年(1552年)に弾正少弼に叙任とされ[2]、後に養子の景勝に弾正少弼の官職を譲った。景勝の子定勝は弾正大弼に叙任され、以後、江戸時代の米沢上杉家当主は代々、弾正大弼に叙任され名乗った。ここから米沢上杉家を「上杉弾正大弼家」と呼ぶことがある。
ほかに弾正忠を自称したものでは、甲斐武田氏家臣の三弾正こと高坂昌信(逃げ弾正)、真田幸隆(攻め弾正)、保科正俊(槍弾正) などが特に知られている。
脚注
[編集]- ^ a b c d 和田英松『新訂 官職要解』講談社〈講談社学術文庫〉、1983年、p.128。
- ^ 『歴名土代』では確認できないが、足利義輝よりの書状では弾正少弼名義となっており、公認されていたのははっきりしている。なお、謙信が養子縁組した関東管領山内上杉家では関東管領を朝廷の官職と同格とみなす立場から室町時代後期以降は関東管領を自らの官職と称して朝廷からの官職を受けなくなったため、謙信はその先例に倣って養子縁組前の"長尾景虎"時代の弾正少弼を最後に以後の官職昇進を受けなかったとする説がある(木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」『日本歴史』第685号、吉川弘文館、2005年6月、18-31頁、CRID 1520572359270228608、ISSN 03869164。)。
弾正台 (明治時代)
[編集]弾正台は、明治2年5月22日(1869年7月1日)、太政官制に基づき、刑法官監察司の職務を引き継いで設置された明治新政府の省庁である。明治4年8月24日(1871年7月9日)、司法省新設により廃止された。
設置
[編集]弾正台はそれまでの刑法官監察司に代わる監察機関として設置され、明治2年7月8日東京の本台のほかに留守官として京都に支台がおかれた。長官である弾正尹には九条道孝、次官である弾正大弼には池田茂政が任じられた[1]。
職員の階級として尹、弼各1名の下に、大忠、少忠、大疏、少疏が各2名、巡察が10名のほか、史生が置かれた[2]。同年7月官制で、弼は大弼に少弼が加わり、大忠、少忠は、大・少・正・権各1名となり、大忠は勅任官、権大忠以下は奏任官、大疏、少疏は判任官となった[3][4][5]。実務上の最高責任者だった弾正大忠の経験者には、吉井友実、門脇重綾、安岡良亮、河田景与、海江田信義、渡邊昇らがいる。
新政府内「尊攘派」の拠点
[編集]この省庁の設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に、彼らを多く採用したいきさつがあり、したがって新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。しかし、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さく、主流派から外された弾正台の尊攘派は、府藩県・各省の幹部の非違を糾すという名目で彼らの政敵たる開国派をやり玉に挙げる程度で満足しなければならなかった[6]。
明治4年5月13日(1871年6月30日)には神戸でキリスト教の禁教を犯した罪で市川栄之助が逮捕される事件が起こった。弾正台に送られた市川は、拷問によってキリスト教信者であるか否かの取り調べを受けたのち、弾正台廃止後の明治5年11月25日(1872年12月24日)に獄内で秘密裏に処刑されたが、公式発表は牢死とされた。
粟田口止刑事件
[編集]設置前後に起こった横井小楠および大村益次郎の襲撃・暗殺事件においては、これを取り締まるべき弾正台の海江田信義(弾正大忠)・古賀十郎(大巡察)ら自身が横井・大村の政策を非難し、暗殺は彼らの自業自得であると主張、あまつさえ暗殺犯の減刑までも主張するに至った。特に京都支台の海江田が中心となって明治2年12月21日(1870年1月21日)、大村襲撃犯の処刑執行を直前で差し止めた「粟田口止刑事件」は東京の新政府内部で問題化した[7]。明治3年4月(1870年5月)、特に過激であった古賀ら大巡察9名が人員削減を名目に免官となり[8]、これを機に政府による尊攘派切り捨てが本格化し、弾正台自体も刑部省への統合が決定された。
廃止
[編集]以上の結果弾正台は、明治4年8月24日(1871年7月9日)、刑部省との統合による司法省の新設にともなって廃止された。
その他の「弾正」
[編集]佐渡に「弾正」姓を名乗る人々がいる。
また、熊本県上益城郡山都町にあった阿蘇氏の居館=浜の館・館跡には、「弾正杉」と呼ばれる杉の大木が19世紀後半頃まであった。現在は「弾正さん」とよばれる百日紅の古木がある。弾正杉の西には阿蘇家の息女ないし侍女の墓と石祠・女性像があり、母乳の出る効能があるとして信仰されている。
脚注
[編集]- ^ 笠原英彦「弾正台と行政監察」『法學研究 : 法律・政治・社会』第72巻第3号、慶應義塾大学法学研究会、1999年3月、1-29頁、CRID 1050564288907301760、ISSN 0389-0538。およびコトバンク「弾正台」(外部リンク参照)。
- ^ 弾正台ヲ置ク国立公文書館
- ^ 少弼(読み)しょうひつコトバンク
- ^ 弾正の忠(読み)だんじょうのじょうコトバンク
- ^ 弾正の疏(読み)だんじょうのさかん
- ^ 牧原憲夫『明治七年の大論争 :建白書から見た近代国家と民衆』 日本経済評論社、1990年(ISBN 4818804339)、p.212。当時大学大丞であった加藤弘之(後の東京大学綜理)も天長節儀式に欠席したことを弾正台に指弾され、謹慎処分を受けている。
- ^ 笠原、前掲、pp.9-11。なお著者はこの事件を、弾正台の職務があまりに広範でその領域が明確でなかったため、他の官庁(ここでは京都府)と衝突・齟齬を起こしたものと見ており、弾正台(ひいては海江田)のいわゆる「守旧的」性格については否定的である。
- ^ 牧原、前掲、p.213。その後、古賀は弾正台廃止後の明治4年12月(1872年1月)に愛宕通旭らとともに新政府転覆のための挙兵を企てた(二卿事件)ことをもって逮捕され梟首に処せられている。
関連項目
[編集]外部リンク
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