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利用者:Susuka/sandbox 2

インド進攻構想

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マハトマ・ガンディー(左)と談笑するスバス・チャンドラ・ボース(右)

ウィンゲート旅団との戦闘以降、ビルマ方面には連合国の反攻が本格化することが予想された。一方で、太平洋方面の戦況では、日本側が不利な状況に追い込まれていた。これにより、ビルマ方面の戦略にも変化が生じた。すなわち、援蔣ルートの完全途絶と、インドの独立運動を焚きつけて騒擾状態に陥れるという従来の目的に加えて、太平洋方面での敗北に対する国民の動揺を抑える、一種の「カンフル剤」としての効果が期待されるようになったのである。この目的のもと、3月18日、緬甸方面軍(ビルマ方面軍)が創設される。これは、ビルマ方面の守りを固めるべく、兵力増強の一環としての措置であった。隷下の第15軍とあわせて、ビルマの日本軍は「一方面軍、一軍」体制に移行した(司令官はそれぞれ、河辺正三大将と、第18師団長から転任した牟田口廉也中将)[1][2]

この頃から、牟田口第15軍司令官は、以前21号作戦に反対した意見を変えて、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻する、という攻勢防御的な計画を構想するようになった。これは、今後ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れての判断の変更であった。より西方のチンドウィン川に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻を封じることができるだけでなく、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていた。

牟田口には、第15軍がアッサム深くまで侵入できれば、ベンガル州出身のボースの旗振りでベンガル州がイギリス統治への反抗に立ち上がり、マハトマ・ガンディーらが展開している「Quit India」(インドから出ていけ)運動がインド全土で盛り上がって、インドが不安定化して対日反攻基地として機能不全に陥るばかりでなく、インド独立と連合軍からの脱落も夢ではないという考えがあったとされる[3]。この牟田口の壮大な構想について、インド軍最高司令官ウェーヴェルは「インドで反乱の起こる可能性は少ない」と一蹴していたが、第15軍と対峙していた第14軍英語版司令官ウィリアム・スリム中将は、「アッサムでの勝利が、辺境のジャングル地に留まらず、遥か彼方まで響き渡ると考えた日本軍は正しかった。事実、日本軍が部隊に訓示したとおり、世界大戦の全貌を変えたことだろう」とのちに振り返っている[4]

牟田口が、かつて自らが反対した21号作戦と類似の作戦を積極的に推し進めた理由としては、かつて盧溝橋事件に関与した牟田口の個人的責任感もかかわっていると思われる。盧溝橋事件では、牟田口を含む現場の軍人の独断専行により戦線が拡大して日中戦争へと発展しており、上位の軍司令部の意図に反することになったことに対して忸怩たる思いを持っていた。そして、21号作戦でも自らの反対によって作戦が中止になっていたことから、以降の牟田口は、大本営や南方軍の意思に従い、かつての21号作戦を忠実に遂行しようとしていたとされる[5][6][7]

わたしが盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は更に拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。
もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。
男子の本懐としてまさにこのうえなきことである[8][9]

そして、インド侵攻のための組織再編もまた、牟田口が突出して主戦論を通す下地になった。再編前の第15軍の参謀は、いずれも従来のインド・ビルマ方面の作戦に精通していたが、組織再編とともにそのほとんどがビルマ方面軍に異動になっており、新制第15軍の首脳陣で現地事情に詳しいのは、牟田口司令官と、参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけであった。そのため、参謀の役割である意見具申の役割が円滑に成り立たず、牟田口司令官の決心が先行し、参謀はその決心による事務処理に終始することとなった[10]

また、牟田口の直属の上官として赴任した河辺方面軍司令官の存在もあった。河辺は方面軍司令官に補任された時に東条英機陸相(首相兼任)と面会した時、インド独立指導者スバス・チャンドラ・ボースが亡命先のナチスドイツから日本に向かっている途中でインド問題に注目が集まっており[11]、東條は河辺に「日本の対ビルマ政策は、対インド政策の先駆に過ぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」と緬甸方面軍の使命を話していた。この後、3月31日に河辺はラングーン着任、翌4月1日にビルマ戦況説明のために牟田口が訪問したが、その時の「何とかして今の内にインドの要衝に突入して、事変の解決に持っていきたい」という趣旨の牟田口の構想は、河辺が聞いた東條の意に沿うものであり、河辺はその構想を「壮大なる意見」として好意的に受け止めた[12]

また、河辺と牟田口は、上述の盧溝橋事件の際にも現地で上官と部下の関係性であり、この時に牟田口らの独走を河辺がフォローした経緯などから、元から個人的な信頼関係があった。この信頼関係から、インパール作戦に対する河辺の好意的な態度が牟田口への一種の「黙約」となっており、以降、牟田口は周囲の消極的、非協力的な態度を押しのけて計画を推進する原動力になったとされる[13]

南方軍は連合軍の本格的な反攻を1943年(昭和18年)と見ており、ビルマ防衛のためには9~10個師団が必要と大本営に増援を要請したが、1943年に増援としたビルマに送られたのは 第15師団(祭)と第31師団(烈)の2個師団に過ぎなかった[14]

  1. ^ 叢書インパール作戦 1968, p. 83
  2. ^ 関口, pp. 146–149.
  3. ^ アレン 1995a, p. 209
  4. ^ アレン 1995a, p. 210
  5. ^ 叢書インパール作戦 1968, pp. 89–91
  6. ^ 戸部 1991, p. 149
  7. ^ 関口, pp. 191–194.
  8. ^ 叢書インパール作戦 1968, pp. 90–91
  9. ^ 土門周平 2005, 電子版, 位置No.1413
  10. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「tobe147」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  11. ^ 大東亜戦史② 1969, p. 140
  12. ^ 土門周平 2005, 電子版, 位置No.1429
  13. ^ 関口, pp. 218–219.
  14. ^ 叢書インパール作戦 1968, p. 83