利用者:StClairAveWest/十王院酒造鹿児島醸造所
十王院酒造鹿児島醸造所(じゅうおういんしゅぞうかごしまじょうぞうじょ)は鹿児島県いちき串木野市に本社を置く酒造会社。十王院グループに属し、蒸留酒、リキュールの製造を行っている。十王院グループに属するが、提携はゆるやかなものとなっており、完全な独立会計としている。「十王院酒造」の「鹿児島醸造所」ではなくまとめて「十王院酒造鹿児島醸造所」という社名なのはそのため。
概要
[編集]他の十王院酒造会と同様に、十王院の名を冠するが十王院グループとは緩やかな提携になっている。これは「酒造会社は各々の色を強く出していく」という十王院グループの方針によるもので、同様の例として日本酒を主に製造する「十王院酒造神戸醸造所」「十王院酒造但馬醸造所」やウィスキー、ブランデーを製造する「十王院酒造札幌北醸造所」等がある。いずれの企業も「〜醸造所」まで含めての社名である。
国内流通や営業を含めたポストプロダクション行程は十王院食品[1]が担当している。全国に「十王院酒造」を冠する会社全体で「十王院酒造会[2]」を形成しており、知識や技術交換等の取り組みがされている(詳細は後述)
2021年度の売上額は128億円で、日本の焼酎専業メーカーで11位。かつて第二次戊辰戦争(後述)のときに十王院側の陣営として大きく売上を伸ばした時期があったが、その後のイメージ戦略の失敗により凋落。現在は十王院グループの傘下である。。
コーポレートスローガンは"KING OF DISTILLERY[3]"で、製造品のラベルには必ず記載がある。かつては「ずんばい、がっつい」(鹿児島方言でそれぞれ「たくさん、ちょうど」で酒豪たる鹿児島県民の県民性を表していたが、近年の健康ブームや酒の消費量の低下、また国際展開戦略のために変更となった。なお、この変更が十王院グループ専務(当時)の十王院カズオ(カケル)[4]がPRISM 1でプリズムショーを飛んだ直後で、前年にプリズムスタァの速水ヒロが用いた"I am King of PRISM"という言葉とも重なるため、一部の報道ではそれにあやかったものとされているが、同社広報部より「偶然です」と発表されている。(ただし、デイリー鹿児島の密着取材の中で、しつこい取材に辟易した広報部でない同社社員が「そんな理由ば詳らかにすっとは人の情っちゅうとばひっちゃゆっことですよ(=そんな理由を詳しく言うのは人の情というものを落とす行為ですよ)」と言ったことも明らかになっている)
歴史
[編集]戦後から第一次経済成長期を経て、国内を二分した十王院家と法月家の水面下での争いは「黒鋼の冷戦」と言われるが、特に同社が絡んだものを、かつて旧政府軍と新政府軍が戦った戦争になぞらえて「第二次戊辰戦争」と呼ぶ文献がある。これは、鹿児島県全体の経済が他都道府県単独資本の流入を許さない志向で形成されており、同県に進出する企業が地元企業との合弁を形成することが多く、いわば鹿児島県に存在する企業は他都道府県資本のものを含めて地元企業ということができる。ここに法月はそれらの慣習を悪習と切り捨て、単独で勢力を広げていった。建設や電力等のインフラ事業をも新規または買収で勢力を広げていたため、地元資本から強い懸念を示されていた。
一方、十王院はその話を聞いてはいたが、当時の十王院は東京一辺倒の時代であり、法月の鹿児島展開を「東京で敗北したから九州の僻地で足掻いている」程度にしか認識していなかった。しかし法月は東京で稼いだ潤沢な資金をベースに、経済の土台として優れている他地方に大攻勢を掛けるという展開を行っており、この戦略により鹿児島でも一部の資本家が相場の倍以上の利益を得たとされる。
金に物を言わせる法月の策略によって、鹿児島の経済は地場資本が幅を利かせることができなくなり、鹿児島で稼いだ金が一旦東京に吸収されるという現象に陥ることとなり、当時十王院と互角に張り合っていた法月にとっては東京も見捨ててはおけないことから東京に吸収され、鹿児島経済圏への還元が少額にとどまるという結果になってしまった。現地民の生活は苦しくなり、有志による数々の経済開放運動が行われたこともあったが、それも治安維持部隊によって制圧された[5]。
十王院は法月の攻勢を知り、産業スパイを送って確認させると、鹿児島経済圏を掌握しつつあることを知り、非常に焦った。そのため急遽対策を練ることになり、結果として現地の鹿児島経済圏を重点的に支援することで、法月に対抗することにした。これは法月、十王院に加えて、地元経済圏も加わった三つ巴の戦いになるのを避け、対法月に集中する目的と、三者間の戦いとなると窮地に陥った地元経済圏が法月に下ることも予想できたためである。そのため、法月として直接の戦いを挑んだ法月側と、地元経済圏を代表に据えて後方支援に徹した十王院側では、やり口や思想もかなり異なっていた。
この争いの過程として、鹿児島経済圏は法月が率いる者たち[6]と、十王院が支援する地場産業[7]で大きく割れることとなり、一部では武力を用いた衝突(郡元事件[8])や暗殺(霧島経済連合会長暗殺事件[9])がたびたび発生していた。議会ですら二分する有様で、会期中に何も決まらずに散会するということも長く続いた[10]。
このとき、鹿児島醸造(当時)は法月家の手に渡っておらず、全社とおして十王院派であった[11]。そのため、インフラ事業を法月に奪われたあとに十王院側に酷い妨害行為が入ったあとは、アルコール燃料の供給[12]や穀物の提供[13]等、酒造会社ならではの支援を行っていた。また、縁起を担ぐために同社の酒を飲用する者が急増し、売上は天井知らずとなった。
第二次戊辰戦争終局で、最後の武力衝突となる前には、同社の在庫を全て兵士に与えた。これには、衝突の際の恐怖心を和らげたり、より感覚を研ぎ澄まさせる意図があったとされている[14][15]。
上記を含めた激しい衝突が繰り返された結果、十王院も法月も疲弊し、消耗戦の様相を呈していた。鹿児島に集中している間、どうしても東京方の把握や展開が遅れることになり、そのために現地暴力団が幅を利かせる地域が出始めたのである。それにより十王院も法月もその対策に追われることになり、鹿児島から離れた東京の本社では、どちらが先に撤退するかを秘密裏に話し合っていた[16]。結局、法月は鹿児島県内での単独での資本展開をやめ、今後はあらゆる業種において地場資本と50/50の合弁とすること[17]、十王院は地場資本への支援からの撤退を条件として「停戦」となった[18][19]。しかしこのときに十王院が鹿児島経済圏への資本参加をすることを制限しなかった[20]ことにより、法月が全ての合弁化を終えたタイミングで十王院も鹿児島企業との資本提携を急速に展開させた。当然法月は反発するが、条件から外れてはいないため、別の方法で対抗せざるを得ず、このあとは命が失われるような激しい衝突は発生していない[21]。
その中で十王院が目を付けたのは、当時最高の売上高を誇っていた鹿児島醸造(当時)であった。しかし第二次戊辰戦争の影響は同社にも現れており、闘争の過程で略奪等の被害に遭い、在庫品を全て供出したこともあり到底操業できる状態ではなかった。また資金も底を尽きかけており[22]、それもありまず資金を得るために大衆酒路線で販路を拡大することを画策した。これが長く同社のイメージとなることとなる。
その戦略が功を奏し、売上が伸びて利益も上々となっていった。当時の労働者からは安くて美味しい酒がどこでも買えることが評判となっていたが、10年、20年と時代が下るにつれて、安酒の代表格と見られてブランド力がなかったこと[23]や、イッキ飲みでの死亡事件等で同社の商品が多く飲まれていたという報道[24]が多くなされると、売上が減少。特にイッキ飲み報道からは激減し、当時業界3位だった売上高は23位まで下落した。
それを危惧した同社の20代、30代で構成される若手社員グループ(以降、若手チームと呼ぶ)が社内改革案を提示した。その骨子は下記のとおりである。
- 大衆酒路線からの撤退、新進気鋭の酒や高級酒路線とする=単価拡大
- 焼酎専業メーカーとしての焼酎らしくない焼酎の開発=世代シェア拡大
現在の状況のほぼ真逆となるような大胆な提案に、社長を始めとした役員全員がひどく驚愕したものの、最後には若手チームの気迫に押され、この内容を了承した。しかし、これに製造部門が強く反対した。
今でこそ鹿児島醸造所時代より製造しつづけていたいわゆる大衆酒を全て他社のOEMとし、自社醸造品は全てオリジナルでかつ商品歴が新しいものが占めるのが特徴であるが、「焼酎らしくない焼酎」を製造することに対しては製造担当より伝統を歪めるものとして大きな反発があり、一時は会社が離散寸前となったことがある。当時売上が落ちる一方でありこのままではベテラン含めて路頭に迷う状態になる可能性が十分あったこと、焼酎らしくない焼酎には、同社が培ってきた伝統が何よりも不可欠であり、その土台がしっかりしていないと美味しいお酒は作れないことを若手チームが説得。「これで決まらなければ会社は解散」という話し合いは、午前10時に始まって翌日の朝10時まで掛かったと言われるが、最終的には製造部長(現会長)の「この会社ば潰したかて、年寄り連中は他に行けば良か。ただ若いもんは酒が造りたい一心で毎日こげに叫んどる。そこまで言うなら、やってみるがよか。責任は全ておいがとる[25]」という言葉を鶴の一声として、大衆酒の整理と他社委託を決断した[26]。なお、大衆酒はラインナップを整理したものの、全てを販売終了とはしなかった[27]。
製造方針転換後すぐは、転換に反対する社員グループにより妨害行為[28]があり、商品の開発や製造が滞ったことがあったが、それらの社員たちを製品開発にあえて重点的に入れることで、彼らに逃げる隙を与えなかったのは、当時の製造部長から若手グループへの入れ知恵であった。製造部門が完全に若手グループへ下ったとなれば、製造部門のプライドを地に落とすことになるため、その代表たる製造部長は決して若手グループに頭を下げることはなく、他人の見ている前ではときに横柄とうつるまでの態度で接していたが、会社という組織においては分断が最善でなく、むしろ害悪であることを認識しており、その裏では積極的に若手を集め、新商品の開発にあたり製造部門が大切にしていることや、人を動かす方法や困難さを説いていた[29]。
もともと酒造りに対してのプライドを持っていた製造部門の社員も、一部を除いて若手グループのひたむきさと前向きな姿勢に感化され、保守的な自身の姿勢を転換していったとされる。当時の談では、8割の社員が心を開き、残念だが2割の社員は社の方針についていけず退職したという。製造部長は彼らを邪険に扱うことはせず、退職時も丁寧に対応し、退職金は定年退職と同じかほぼ同等の金額[30]を出すように経理役員と交渉していた[31]。
しかし、焼酎らしくない焼酎というコンセプトがそもそも分かりにくかったため、同社の新商品開発は困難を極めた。商品化できたとしても宣伝力が足りずに大量に返品される有様であった。そのような状況のなかで、社員のひとりが工場敷地内での大規模な試飲会を企画した。これは返品された酒を試飲会参加者に無料で飲んでもらって、本当に不味いのかどうかを決めてもらおうという自虐的な企画で、ポスターにも大きく「落第?」と書かれており大きく目を引いたものとなった。卸や酒屋のツテでポスター・ビラを配り、ときには町中で社員が自らビラを手渡ししたり、地場のニュース番組に出演したりして広報し、当日は連休期間3日で15000人の予想を大幅に超えて、1日で3万人の来場者が押し寄せる事態となった。駐車場はすぐに埋まり渋滞すら引き起こす有様で、近隣住民から大顰蹙を買ったとされる[32][33]。
しかし、その多くの来場者が酒をジャッジする機会は、同社にとってはまたとない絶好のチャンスとなったことも事実である。実際に、部署を問わず社員が直接消費者と話して、その意見をヒアリングしてまとめた資料は膨大な量(後述)となり、同社の商品開発に多大な影響を与えた。また、モチベーションともなり、商品開発が加速することにも繋がった。また、参加者が気に入った酒は無償で瓶ごと配った[34]ため、目に見えて人気の酒とそうでないものが分かるという、商品開発者にとっては胃が痛い光景となった。しかし、感覚でなく数字で見えることにより、同社の開発の方向性が定まっていくのを大きく助けた。
3日間の行程を全て終えたあと、全社員は打ち上げがてらに自分たちの作った酒を飲んだ。自然と「あの男性はもっとこうしたほうがいいと言った」「あまり飲まないという女性はこれくらいがよいといった」という話で盛り上がっていき、そうであれば一旦全て資料にまとめることになり、その日のうちに全社員が手書きで走り書きのメモを作った結果、150人で500枚以上のものとなり、後日それぞれの品目ごとにまとめると法則や相関が見えてくることが分かった。それをベースに、社内での開発テイスティングと社外の一般消費者の試飲会を重ねて完成したのが、同社の"Das Könich[35]"であった。焼酎の名前に横文字を使うのは、開発当時相当珍しいことであった。
Das Könichのお披露目にあたっては「お客様のご意見で作ったのだから、お客様に還元するのがよい」という意見から、前回の「落第」イベントと同様の試飲会を企画した。その場で飲んでもらい、気に入ったら購入できるようにしたところ、試飲をした半数が購入し早々に在庫が尽きてしまった。同時に卸や小売に営業を掛けていたが、その取り分すらミスで使い果たしてしまい、その後すぐに業者より「到着はいつか、顧客が注文したがっている」という電話が鳴り止まないようになった[36]。そのため工場はほぼ24時間稼働となり、製造部門以外の社員も材料や資材の発注や処理に追われることとなった。
供給が落ち着いた頃、大阪府のスーパーマーケットから直接同社に連絡があった。話によると、この酒の評判を聞きつけて買い付けたいとのことだったため、それを聞いた営業役員は翌日に大阪へ商品を持って発ち、到着した夜にそのスーパーの店長とバイヤーを鹿児島料理専門店に誘い、料理と商品を振る舞った。これには、大阪での販路拡大の足がかりにしたい思惑があり、大阪に限らずスーパーマーケット業界は横のつながりが強く、この店のスタッフが気に入れば大阪でも販路拡大できると見込んでのことだった。しかも、その店長は両親が鹿児島の出身[37]であり、顧客も鹿児島にルーツを持つ人が多いのだという。事前に鹿児島料理店に頼み込んで自社の商品を提供してもらうほど準備をしていた商談は大成功となったという逸話がある。
この成功体験をきっかけに、同社は焼酎ベースのフルーツリキュールや、樽の木の品種によってレパートリーのある商品やクラフトジンなど、ニッチで知る人ぞ知る商品展開を加速させていった。当時これまで売上高が10位以上になったことはない[38]ものの、根強いファンがいることで知られる会社となった。
同社の転換点となったのは2010年台後半になり、SNSが広く普及してからである。当時時代の流れに取り残されないようにと初めたネットショッピングに、鹿児島県や当時展開していた近畿のみならず、南は沖縄から北は北海道まで、広い地域からの注文が来ていることが分かり同社が調べたところ、SNSでその評判が拡大していることを知った。その報告を受けた社長はすぐさまSNSが得意な社員を探したものの、当時同社ではSNSの存在すら知らない者も多く[39]、このまま小さな盛り上がりで終わるかと思われたが、かつて新しいことを行って成功したという経験がある同社の一部社員が、SNSやインターネット販売の重要さを説いたものをチームで共有し、それが社長の耳に入ることになる。その結果、同社のインターネット販売部門を強化することになり、専用の部署が作られた。
それにより、同社ではこれまで小売店8:インターネット2の販売比率だったものが、現在ではインターネット7:小売店3と逆転している。メールマガジン会員限定試飲会や、画像SNSでのいわゆる"映え"を意識したブランド展開等で、若い焼酎人口が増加しシェアを下支えしているという。インターネットにより一部の小売店では取り扱わないところも出てきたが、逆に卸先としては各地方の「ちょっとニッチな[40]」酒屋への販路が拡大しているといい、全国の愛好家に商品が届きやすくなっているという。
商品
[編集]- 桜灰(大衆酒であり、100年近く販売されている。御宝酒造のOEM。鹿児島県下のコンビニならどこでも買えるほど浸透。)
- Das Könich(同社のニッチな焼酎第一号。これまで味の変更は200回を超える)
- Le Japon(焼酎ベースのリキュール)
- 文旦(鹿児島名産の文旦を使用したリキュール)
- 国産レモン(広島県産と鹿児島県産の国産レモンをブレンドしたリキュール)
- 青レモン(国産の青レモンを使用したもの。上記国産レモンより酸味と青々しい風味が強い)
- キイチゴ(フランボワーズを使用したもの)
- スパイシーズ(シナモンやブラックペッパー、バニラなど複数のスパイスや香料を使ったもの)
- ゆず(国産ゆずの果皮すべてを使用したもの)
- 大蒜(ニンニクを使用したもの。フレンチシェフがソース造りに愛用していることで有名となった)
- マンゴー(宮崎県産の廃棄予定のマンゴーを使用したもの)
- やさしい蜜柑(熊本県産・長崎県産の温州みかん果汁をブレンドしたもの。ラインナップでは一番アルコール度数が低い)
- 甘いジャガイモ焼酎 白洲(産学連携で開発された糖分の強いジャガイモが原料となっている焼酎。カラメルやバニラ様の香りがする)
- 宵の明星(焼酎を樽熟成したもの。樽に使用される木材の品種によって風味が異なるのが特徴[41])
- アメリカンホワイトオーク
- セシルオーク
- リムーザンオーク
- ミズナラ
- 松
- 檜
- 桜
- 白樺
十王院酒造会を形成する会社一覧
[編集]- 十王院酒造札幌北醸造所(ウィスキー)
- 十王院酒造函館醸造所(ビール)
- 十王院酒造新潟醸造所(日本酒)
- 十王院酒造東京醸造所(ビール)
- 十王院酒造甲府醸造所(ワイン、シードル)
- 十王院酒造長野醸造所(シードル、ワイン)
- 十王院酒造神戸醸造所(日本酒)
- 十王院酒造但馬醸造所(日本酒)
- 十王院酒造鹿児島醸造所(焼酎)
なお、十王院酒造会の会合はLe tresさっぽろ(旧十王院酒造札幌南醸造所)で行われることが多い。
脚注
[編集]- ^ 正確には十王院食品株式会社飲料統括本部嗜好飲料部。流通の役割と卸の役割を兼ねる。そのため、十王院食品以外にも同社の酒類の卸会社は存在する(例:越山酒販)
- ^ 資本提携がなく、持ち株も行っておらず、あくまで知識や経験の交換や協力を主とする繋がりであることから、グループとは名乗らず会と呼称。
- ^ 「醸造所の王者」の意味
- ^ 本名または役員としての氏名は「十王院一男」だが、ここでは広報資料にあわせた。なお「十王院カケル」はプリズムスタァとしての彼の名前。
- ^ ここでいう「治安維持部隊」は正式名称であり、法月の私設部隊。警察とは異なる。(尤も、警察は特定企業へのデモを積極的に取り締まろうとはしていなかった)
- ^ 鹿児島電氣汽船(電力・鉄道)、薩摩製鉄(鉄鋼)、霧島桜島通商(船舶運輸)、姶良造船(造船)等 ※いずれも当時
- ^ 鹿児島自動車(乗合バス・ハイヤー)、鹿児島市内百貨店(小売)、新鹿児島デイリイサービス(雑誌新聞刊行)、西鹿児島観光(旅行手配・旅館経営)等 ※いずれも当時
- ^ 鹿児島市郡元で、商店への放火をきっかけに武力闘争に発展したもの。参戦者は2人を除いて全員死亡した。元日本陸軍兵たちの派閥や学閥をも利用し、それら別の側面からの闘争心を煽ったことにより、泥沼化・政治問題化した。当時鹿児島において十王院・法月両家の水面下の争いが行われていることを知らない東京の政治家ですら「郡元ニ於テ元義軍兵達同士が争ヒタル形跡ノアル事、面白カラス眞ニ不怪成レバ此レヲ検メラレタシ(=郡元において元日本兵たち同士が争った形跡のあることは非常にまずく怪しいため、調査したほうがよい)」と当時の高等警察に進言しているほどである。
- ^ 当時の鹿児島県経団連会長が法月派に射殺された事件。会長は地場産業の代表であることから十王院派で、射殺した犯人が18歳の少年だったことから、現地の新聞を大いに沸かせた。2者間の争いが世代を問わず広がっていたことを示す事件として扱われる。
- ^ これにより、鹿児島県各市町村の政治運営がかなり遅れたとされる。
- ^ 法月家はインフラや重工業をメインの目標としており、嗜好品市場には見向きもしていなかったからとされる。そのため、当初は産業スパイを送られることもなかった。
- ^ 何度も蒸留することにより、高純度のエタノールを生成していた。このときに使っていた重油や石炭の燃料は十王院から供給を受けていた。なお、重油・石炭のまま使わなかったのは、当時のガソリン自動車の燃料としては不適だったため。後にガソリン車を改造した石炭ガスエンジン車が開発されるまで、効率はかなり悪かったものの、唯一の燃料だったために広く使われた。(ディーゼルエンジンには松根油や灯油が使われていた)。
- ^ 当時から製造していた芋焼酎の芋や麹用の米など。いずれも酒造り用の品種でかなり味は悪かったらしい。
- ^ 現代では、アルコールが恐怖心を和らげる精神作用があることは分かっているが、そのことからも分かるように、感覚についてはむしろ麻痺する傾向にあり、アルコールを摂取したからと言って感覚が研ぎ澄まされることはまずない。当時はアルコールを飲んで労働することも普通に行われていたため、普段の感覚を取り戻す意図が強かったとされる。
- ^ そのため、縁起を担ぐ「勝ち酒」と同じくして、当時を経験した鹿児島の高齢者の中には、同社の酒を「死に酒」として忌避している者も一定数存在する。
- ^ 両者とも「東京が正念場」であり「鹿児島での争いは不本意」だった(し、こんなに長期化するとは思っていなかった)ということが背景にある。
- ^ 上下関係が出やすい提携ではなく、株式等の数字で関係がわかりやすい合弁とした。
- ^ そもそも開戦の宣言もなされていないため、休戦という言葉は好ましくない(内戦が始まっている公式記録がないため)が、ここは両者が発表した言葉に忠実であるようにした。
- ^ なお、法月は地方展開のほとんどを失敗している。ここから約20年後には突如として地方からの撤退と東京への集中を宣言し、経済圏に取り入ることに成功した地域からも一部のプリズムショー関連のビジネスを除き撤退した。そのため、主に山陰・東北の一部地方で少なからず混乱が生じた。
- ^ 単に法月側の担当者が見落としてたからとも、十王院側が圧力をかけたからとも、十王院から非公式に法月側に数十億円の裏金の提供があったからとも言われているが、真実は不明。
- ^ ただし、法月側が一方的に十王院側への電力供給を切ったことにより、安全装置が不備を起こしビルのエレベータが落下し従業員が死亡した事故や、十王院側の観光バス会社が故意に法月側の重役を轢いて殺害する事件は発生しているが、いずれも「従業員による怨嗟」とされている。
- ^ 当時の社長は社の現金ほぼ全てをつぎ込んで、闘争の支援を行っていた。十王院は鹿児島醸造経理役員に貸借対照表等の経理資料を提示するように求め、同社もそれに応じたが、その資料が古くまた管理も雑で、おおよそ現在の状況を示しているものではなかった。十王院が同社の状況に気づくのは、念の為と銀行に対して照会を行ったあとであり、既に買収は完了していた。
- ^ 大衆酒にこだわるあまり、焼酎=おじさんの飲むものという固定概念を作ってしまった。
- ^ これが最初に発表されたのは、法月グループのタブロイド誌であった。
- ^ 「この会社を潰しても、年寄り連中は他(の会社)に行けば良い。ただ若い者は酒が造りたい一心で叫んでいる。そこまで言うならやってみるがいい。責任は俺がとる。」
- ^ 当時20代、30代を中心とした若手グループと、40代後半、50代が多くを占める製造部門との「体力の差」を指摘する文献も存在する。
- ^ 当時終了予定としていたが、若手チームより「うちが大切にしてきた、いつも飲んでいる味が安くいつでも買えるところにあるというのも大切」という意見と販売続行の提案がなされたことによるもの。
- ^ いわゆる遵法闘争。会社の規則や日本の法律に則っているため処分も逮捕もされないが、それを丁寧すぎる内容で行うあまり、業務が遂行できなくなっていた。
- ^ そのため、新人等の事情を知らない若手社員の中には、表と裏の接し方の違いに心底困惑したものも多数いたという。 また、製造部門がプライドの高い社員で占められていることも把握していたため、取り入ろうと思って無闇に褒めたり仲良くしようとしないことや、酒造りのことに関しては大喧嘩となっても、その品質や味を向上するためのものであれば、翌朝には全て忘れて元通りである性格であることも伝えた。
- ^ 同社の就業規則では、自己都合の中途退職と定年退職では退職金の額が異なっていた。
- ^ 後に彼らの一部は他社に移ったあとのノウハウを持って、その社で定年を迎えたあとに十王院酒造鹿児島醸造に戻ってくることになる。彼らはこれまで鹿児島醸造所一社しか知らなかった若手グループのメンバーたちに、新しい知識や経験を口伝する役割を担った。
- ^ 二日目以降は建設中の新工場の建設を一旦停止させて、ほぼ更地の敷地に駐車させるように案内した。それでも混乱は収まらず、警察が出動する事態となり、結局は駐車場の整理は地元の消防団が行っていたという。
- ^ 思う存分飲みたいからと特急つばめ(当時)で来場した人も大勢いて、当時「地元の人ばかりで電車では来ないだろう」と見込んでいた同社にとっては嬉しい誤算となったが、シャトルバスが2台のみで輸送がパンクしていたため、急遽営業所にバスの手配を依頼した逸話がある。なお、このときは夏休みシーズンで観光バスがほとんど出払っており、足りない分は点検待ちだった路線バス仕様車を流用した。
- ^ 参加者には第二次戊辰戦争時代の同社OBもいて、当時無償で配られた勝ち酒のような光景を懐かしむ声もあった。
- ^ ダス・ケーヒニ。ドイツ語で「The King」を表す。
- ^ 当時ISDN回線で契約していた3回線がパンクしていた。
- ^ 鹿児島県民、宮崎県民は比較的近畿地方に引っ越すことが多かった。
- ^ 仮に「落第」イベントで配った瓶が全て有償販売であれば余裕での1位だったことが後に明かされている。同社の当時の状況が如何にひどかったかという笑い話である。
- ^ 当時若手チームだった者たちも、このときには既に40代、50代になっていた。
- ^ 同社はニッチという言葉にマイナスイメージはまったくなく、むしろそのようなお酒を置いているお店に対して褒め言葉としてニッチという単語を使うことも珍しくない。
- ^ 漢字表記の木樽はかなり尖った味がするとされている。