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利用者:Sin1024/sandbox

言葉狩り(ことばがり)は、検閲自主規制、発言者への抗議などによって、差別用語などの社会的に不適当とされた言葉の使用が禁じられること。もっぱら、その規制が目的にそぐわない非本質的なものであり、表現の自由を侵害するものであるという批判と揶揄が込められている。1993年に起きた筒井康隆の作品「無人警察」における一連の事件の中で扱われ世間に浸透した。[1]

議論

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「言葉狩り」という語は70年代の部落解放同盟日本共産党の対立の中でも、批判の材料として用いられた。解放同盟の行っていた「差別語」糾弾に対して、日本共産党は解放同盟が差別的な意味が込められていない言動や作品をことさらに取り立てて、テレビ局にいいかえ等の自主規制を強いることで表現を萎縮させていると非難した。これに対し、解放同盟は1975年に発表した「差別語問題についてのわれわれの見解」の中で、これはレッテル張りであり、日本共産党は『わが同盟を「言葉狩り」の張本人にしたてあげ、「表現の自由」を犯す団体であるというイメージを、人民大衆の間にうえつけようと』していると主張しているp308。また、テレビ局の自主規制については、解放同盟の責任を否定した上で『差別を生み出す社会そのものを問わず、言葉だけに問題をすりかえ』『問題の解決を遅らせるものである』と批判しているp313。[2] 高木正幸『差別用語の基礎知識'99』土曜美術出版社販売、1999年。ISBN 978-4812011874 

上の例で、対立する双方が「言葉狩り」を誤ったものと見做していることからも分かる通り、「言葉狩り」そのものが負の価値判断を伴った語である。ゆえにある言葉に対する規制や抗議が「言葉狩り」であると指摘された場合、規制や抗議を行った当事者がその行為を正当化するためにはそれが「言葉狩り」ではないと主張しなければならない。ゆえに、ある案件が言葉狩りであるか否かのコンセンサスを得ることは難しい。

言葉狩りとして批判されたケース

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差別用語の問題

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差別用語が問題視されるのは、差別の現実におかれている人々がその言葉によって差別を感じ、傷つくためである。しかしながら、ある言葉が差別を感じさせるか否かはそれが用いられた文脈や、受け取る側の環境に左右されるため、言葉自体が差別語か否かを客観的に定めることは出来ない。さらに、発言側が自らの言葉を差別用語と認める場合にも、自らの差別意識や差別への無理解を反省することなく、部落解放同盟などの運動団体の抗議を受けた、または受けるかもしれないということに判断の基準をおいている例が多い。p27

また、言葉は道具に過ぎないという考え方からすれば、社会に既に差別があるからこそ差別用語が生じているのであり、差別用語を追放するだけでは差別の問題を解決することは出来ないとも言える。そのような課題があってなお、差別用語を社会的に禁じようとする理由は幾つか挙げられる。

  1. 現に差別され社会的弱者の立場にある人々を傷つけることは、それが懸念に過ぎずともなるべく避けるべきである。
  2. 言葉は社会の産物であるが、同時に社会や人間に意識に働きかけるものである。差別用語の使用も差別を再生産することに繋がる。
  3. それが歴史的に差別のために用いられた造語である場合、発言者の意図に関わらず差別の意味を持つものである。

https://www.afpbb.com/articles/-/3031475

  1. ^ 吉村和真, 田中聡, 表智之共著、「差別と向き合うマンガたち」、臨川書店、2007.7 ISBN 978-4-653-04013-2
  2. ^ 高木正幸著、「差別用語の基礎知識'99」、土曜美術出版社販売、1999.7 ISBN 978-4812011874