利用者:S kitahashi/第2回執筆コンテスト評
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もとより、各分野への専門的なつっこんだ議論はできないが、一人の参加者として雑感を並べてゆきたい。レベルの高いコンテストとなり、多くの良質な記事に出会えた。各執筆者や開催にあたった選者諸氏に、おおいに感謝したい。このなかから将来、秀逸な記事などに認められるものが出てくることを期待したい。分野Bについても言及したいが、さしあたりAについて述べてみる。基本的に(建設的なつもりで書いた)批判なので、的外れな点や関係諸氏の気分を害する言及があるかもしれない。このことを前もってことわっておきたいが、問題発言と思われるようなところなどあれば、忌憚なく再批判を賜りたい。
- ●新法・旧法の争い
- 歴史的意義の高い事件(?)で、百科事典なら当然あるべき記事と思われる。記事がつくられただけでも十分な評価に値する。政治史・経済史・社会史各方面への造詣がないと書けない記事である。惜しむらくは、中立的な観点への懸念である。ともすれば我々は新法党に肩入れしがちだが、この記事にもところどころ───多くはないが───主観性を感じる部分がある。政治的腐敗や不合理と思われるような既得権益は、歴史上いつでもどこでも発見できる。こうした腐敗・既得権はマイナス要素もあるものの経済社会構造の一側面であり、それが打破されたとき混乱に陥り、より悲惨と思われるような事件を起こすこともある。歴史に触れるさいに最も気をつけるべきは、現代の我々の価値観で当時を評価することの危うさである。19世紀まで民主主義が危険な思想であったのは、昔の人々が蒙昧だったからではなく、それが当然だったからである。今我々が当たり前と思っていることは、必ずしもそうではない。歴史学とは、現代の我々の常識を問い直す側面も有している。こういったことを改めて考えさせられた投稿だった。そのほかの向上の余地としては、事件・記事の規模が大きいながら、歴史的評価がわりあいに簡略な点であろうか。
- ●イエナ・アウエルシュタットの戦い
- 丁寧に記述され、分かりやすさに気が配られている。この一点に限っても、生半可に達成されることではない。その点は十分に評価したい。口幅ったいが批判できるとすれば、以下の2点であろうか。ひとつは戦史の陥りやすい点として、歴史の物語化があげられるのではないか。物語化は可読性をおおいに高める一方、公平な視点からの記述と相性がよくない。しばしばヒーローが必要であり(手前味噌な例でいえば、ブレイブハートのウィリアム・ウォレス)、そのヒーローへの視点はおのずと好意的になる。当記事においてはルイ=ニコラ・ダヴーがそれであろうか。ふたつめは、戦争とはしばしば退屈で散文的な事実───たとえば兵站の調達と補給───が、きわめて重要な一面を担うことに言及したほうがよいのではないかという点である。十分な補給と情報がしばしば勝敗を左右するのは、卑近な例でいえば太平洋戦争のごとしである。このことは、すぐれた将軍たちによる華々しい功績の陰に隠れて埋没してしまいやすい。こうした方面の再検討を望むところ切である。
- ●サンタフェ (ニューメキシコ州)
- 美しい画像が多く使われたことは、決して蔑ろにはできない。諸々のメディアを適切に利用することは読者の理解を助けるなど、メリットが多い。個人的に印象深かったのは「1.3 サンタフェ・スタイル」の項であろうか。サンタフェを身近に感じることができる。アラを探すとなると、英語の知識を読者に求めすぎているのではないかと思われる点、および実際の記述が「4 芸術と文化」の前半までに限られてしまうところであろうか。前者はYassie氏がICU出身だからであろうかと勘ぐったりもするが、英語は世界中に幾万とある言語のひとつにすぎない。英語が出てくるのは英語圏の都市ゆえ当然なのだが、ウィキペディア日本語版ではなるべく日本語を用いるほうが望ましい。後者については───これは私個人の問題意識で、おそらくスタイルマニュアルにも関わることなのだが───地理関連の記事には必ずといっていいほど一覧が並べてあるが、はたして必要なのだろうか。たとえば人口統計データはテンプレート化したほうが可読性がよいと思われる。他所でも触れたが、1024x768の画面で閲覧する読者、プリントアウトする読者も少なくないのではないか。また情報を多く盛り込めばそれだけ、相対的に強調すべき部分が薄まってしまう。このあたりのことが気になった次第である。
- ●チェコの音楽
- チェコの音楽って、書くことあるのかと当初は思っていたが、それはよい意味で裏切られた。豊かに発展した音楽文化を詳細にわたり明らかにした記事として高く評価すべきである。難癖をつけるとなれば、チェコの音楽はクラシック以外なかったのであろうかという点、および節が長めになっているので、その節のサマリーを最初に述べてから詳述するというスタイルのほうが望ましいのではないかという点、以上ふたつである。音楽を学問として扱うとき、それがクラシック中心になりがちなのはウィキペディアンのみならず研究者の間でもしばしば見られる。民族音楽や現代ポップスなどにも切り込みたいところではあるが、これはないものねだりかも知れない。先行研究があるのかどうかもわからない(なさそうな気がする)からである。補足として付言するなら、1国家=1文化=1民族という枠組みは、特に陸続きの地域では必ずしもあてはまらないのではないかという疑問も湧いてきた。
- ●退廃芸術
- 個人的には一番をつける。いかなる芸術が退廃芸術となるか、その変遷はどうなったか、のちの評価がどうか、など十分な量と執筆者の非常に高いリテラシーが評価できる。指摘するとなれば画像の少なさであろうか。画像は、いかなるものが退廃とされたのかを視覚的に説明してくれる。むろんリンク先をたどっていけば分かることと思うが、単記事で最低限の理解ができるほうが望ましいと思われる。また芸術活動等への政治の介入という視点から、横の広がりがあると面白くなるのではなかろうか。
- ●ゴート語
- 言語についての記事として手本のひとつを例示した点、およびそれを死語で達成した点など、多くの範を示した。今後これに追随する動きを期待するものである。また構成も適切と思われる。全体にかかわるものとしては、読者に高度な知識・読解力を求めているのではないかという点である。一般人になじみのない語───たとえば最小対───は、リンクを辿ればわかるが、できれば単記事で最小限の説明を付したいところである。こうした点に逐一配慮すると、おのずと専門的部分は他記事に譲って平易な記述をめざすことになろうかと思われる。個別部分でブラッシュアップを試みるならば「1 概要」であろうか。この項は事実上歴史になっているように思われる。記事全体のサマリーとして論述するほうが、より望ましいと考える。最後に、実際に音声を聴けるようになれば、画期的前進となるだろう。閉鎖音などを文字だけで説明するのはおのずと限界がある。これは今後のWikimediaの充実も含めて期待したいところである。
- ●嘉数の戦い
- 日本の敗戦戦闘の記事は、ウィキペディアがネットコミュニティである以上、いわゆる炎上的事態になりやすい。それをいきなり完成度の高い記事として詳述した点は、今後の日本語版のありかたに一石を投じるものとなろう。いっぽうで、POVと思われる記述が散見されるのは残念なところである。「…と思われる。」「…が好ましい」etcの表現を本文で使うのは、記事の信頼性を押し下げてしまうのではないかと懸念する。また何を参考に執筆したのか明らかでないのは、この規模の記事としては残念なところである。
- ●密室殺人
- 執筆者のエネルギーに敬服することしきりである。密室殺人がこれほど深いものとは想像もしなかった。大きな点として二つあげられるだろうか。ひとつめは日本に力点が置かれているように思われる点である。これについては所々で議論されていることなので深入りは避ける。いまひとつは歴史について、編年体で記述するならテーブル化・年表化してもよかったのではという点である。文章を使うのは、出来事どうしの関連を論じることができるからである。またこのことは、より広いパースペクティヴにおいても感じられる。記事全体がほぼ推理小説内の話にとどまっており、そこから現実の世界に飛び出すものへの記述が欲しかった。密室殺人はなぜ推理小説で大きい存在感を示したのか。もっとひろくいえば推理小説といえば殺人なのはなぜなのか。現実で起こった殺人事件は、推理小説に何らかの影響を与えたか。逆に推理小説が現実の事件に影響を及ぼしたことはあるのか。このあたりの疑問についての解答が用意されれば、推理小説を趣味としない人への訴求力も飛躍的向上を見せることと思われる。
- ●ボツワナの歴史
- 特に無文字時代の記述は大変貴重である。日本人が世界史といえば、ともすればヨーロッパ史と中国史に収斂してしまいがちである。当記事は、それを打ち破る試みとして、ウィキペディア全体への貢献も非常に大きいといえる。私がこれに一番をつけなかったのは、節の設定が16個、縦にずらりと並んでいるのはいかがなものかと思った点、そして特に植民地時代、政治史に寄っているように思われる点などである。政治史は重要な分野であるが、一分野にすぎない。現地人がどのような生活を送っていたか、そしてそのことは政治・経済にどう影響したか。このへんの記述が整ってくれば完成度も高まると思われる。
総じて、一次選考に残った記事は量的に十分であった。しかしそのことは必ずしもポジティヴな方向に作用するとは限らない。大規模化は可読性の低下と親和的である。記事の目的は、そのトピックに関して必要十分な情報を、読者を選ばないかたちで提供することであると勝手に思っている。となれば、分割などの方法もとりうる。ターゲットリーダーは調査・読解・論説などのトレーニングを受けた者とは限らない。私個人としては、良質な記事が高度な読解力を要求し、初学者を排してしまうことを危惧するものである。最後に削除主義者が掲げるスローガンを紹介したい。削除主義というウィキフィロソフィーは───無批判で受容されるべきとは思わないが───ひとつの参考となる。サン=テグジュペリにいわく「完璧とは、付け加えるべき情報が残されていないときでなく、何も取り除くべきものがないときに達成される。」