利用者:Roundmountain0314/sandbox
座標: 北緯36度14分00秒 東経136度28分17秒 / 北緯36.233412度 東経136.471497度
山中温泉大土町 | |
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山中温泉大土町の全景 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 石川県 |
市町村 | 加賀市 |
人口 (2022年4月時点) | |
• 合計 | 1人 |
山中温泉大土町(やまなかおんせんおおづちまち)は、石川県加賀市にある町字。加賀市加賀東谷重要伝統的建造物群保存地区の一部にあたる[1][2]。
歴史
[編集]近世から昭和前期にかけて製炭業で繫栄し、江戸時代には大聖寺藩に炭を納めていた[2][3]。明治初期の最盛期には46戸の集落であったが、1894年(明治27年)から1902年(明治35年)にかけて、北海道開拓加賀団体として、24世帯が北海道石狩市花畔に集団移住した。[4]
大火
[編集]1938年(昭和13年)5月22日には、たき火が火元となる火災が発生し、住居21棟、土蔵13棟、寝屋6棟が全焼し、集落は焼け野原と化した[5]。被害額は、当時の貨幣価値で約25,000円となった[5]。 1938年から1940年の間に、2名の大工によって現存の住居10棟が建てられる。この時に、茅葺き屋根から赤瓦の屋根に替わり、建物内部の部材には漆が塗られるようになった。[6]2003年から大火を記念した復興祭が行われている[7]。また、2006年5月21日に開かれた復興祭では住民の他、県内外から元住民を含めた100人以上が参加した[8]。
地理
[編集]石川県加賀市、小松市と福井県勝山市にまたがる大日山の麓から流れる動橋川と杉水川沿いに位置する旧山中町東谷地区の集落のうち、一番上流に位置する山奥の狭隘な集落である。昔から積雪量が多く冬季は孤立することもある[9]。
隣の今立町との境界を決めるときに、両集落の肝煎が相談して、朝起きて歩き出して出会ったところにすることにしたが、今立の肝煎が早起きしたのに対し、大土の肝煎は朝寝坊をしてしまったため、大土の土地は甚だ狭くなったとの伝承が残っている[10]。
文化・暮らし
[編集]2011年(平成23年)11月29日には、周辺集落を含めた4地区が加賀市加賀東谷伝統的建造物群保存地区に指定された[2]。
2015年(平成27年)からは、建造物群と自然を生かす形で、住民と国際ワークキャンプ団体の協働事業として農業体験などを行う事業を実施し、延べ23カ国300人以上が参加した[11]。
2022年11月3日にはウィキペディア編集・執筆ワークショップ「ウィキペディアタウン」が開催された[12]。
交通
[編集]石川県道153号我谷今立塔尾線と接続している加賀市道今立大土線を経由して集落に入る[13]。
脚注
[編集]- ^ “旅するチョウ 大土の魅力に 加賀・山中 アサギマダラ次々 :北陸中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2022年11月3日閲覧。
- ^ a b c “加賀市加賀東谷伝統的建造物群保存地区”. 石川県. 石川県 (2011年11月30日). 2022年11月3日閲覧。
- ^ “【4K動画】炭焼きで栄えた時代を想起させる山村集落:石川・加賀「東谷地区」”. nippon.com (2019年8月15日). 2022年11月3日閲覧。
- ^ “『大土町昔今』大土町の歴史”. 2022年12月20日閲覧。
- ^ a b “東谷奥村の大火 木炭、蔵米の被害は多し”. 北国新聞. (1938年5月13日)
- ^ “鎮火祭についてのインタビュー”. かがが. 2023年1月16日閲覧。
- ^ “74年前の大火を教訓に防火誓う 加賀市大土町で復興祭”. 北國新聞朝刊: p. 23. (2012年5月21日)
- ^ “住民4人の町にぎわう 加賀市・山中温泉大土町、大火戒め復興祭 元住民ら100人以上、旧交温める”. 北國新聞: p. 22. (2006年5月22日)
- ^ 『東谷のくらしと歴史』山中町民俗資料調査委員会、1990年6月1日、1頁。
- ^ 小塚秀得『江沼志稿』1844年。
- ^ “「伝統建築が残る自然いっぱいの村で農作業体験!」が開催されました”. 北陸農政局. 北陸農政局 (2017年8月28日). 2022年11月3日閲覧。
- ^ “かががウィキペディアタウン”. 映像ワークショップ合同会社. (2022年11月3日)
- ^ “山村強靭化林道整備事業 立杉線”. 石川県. 2022年11月3日閲覧。
関連項目
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