利用者:Revolution will/sandbox/第5作業室
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永宣君 | |
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各種表記 | |
ハングル: |
칭호:영선군 호:석정・송정 자:경극 |
漢字: |
称号:永宣君 号:石庭・松亭 字:景極 |
発音: |
シンホ:ヨンソングン ホ:ソクパ チャ:シベク |
日本語読み: |
しょうごう:えいせんぐん ごう:せきてい・まつてい あざな:けいぎょく |
各種表記(本名) | |
ハングル: | 이준용 |
漢字: | 李埈鎔 |
発音: | イ・ジュンヨン |
日本語読み: | り・しゅんよう |
永宣君(영선군、ヨンソングン、1820年6月25日 - 1917年3月22日)は李氏朝鮮末期の王族、大韓帝国の皇族、政治家、軍人。字は「景極」、号は「石庭」、「松亭」、本名は李埈鎔(이준용、イ・ジュンヨン)。別名は「無涙公子」(무루공자)。父完興君と母豊山洪氏の長男であり、興宣大院君の嫡長孫。また叔父に高宗、叔母に閔妃がいる。
幼い頃より祖父大院君にかわいがられていた。1886年文科に及第し、輔国崇禄大夫となった。宮廷に入内したころから大院君派の枢軸となり、大院君は父完興君に代わって、自らを王位に推戴しようと試みた。結局これらはすべて失敗するが金弘集政権では、吏曹判書、統衛使を歴任し、上輔国崇禄大夫に昇った。1894年開化派の金鶴羽暗殺事件の際、首謀者として捕らえられ、流刑になるが、乙未事変の際、大院君の計らいで、流刑地を脱した。その後は駐箚日本公使と陸軍参将になった。永宣君は大院君と同じ意思と精神を持っていたことで大院君に寵用された。