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利用者:Quark Logo/sandbox願成寺 (人吉市)

願成寺
願成寺本堂。大正11年に再建。
所在地 熊本県人吉市願成寺町956
山号 伝法山(山崎山)
宗派 真言宗大覚寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 天福元年(1233年)
開山 弘秀上人
開基 相良長頼
中興年 永禄7年(1564年)
中興 眞譽法印
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願成寺(がんじょうじ)は、熊本県人吉市に位置する寺院である。山号は伝法山。本尊は阿弥陀如来京都市右京区嵯峨大覚寺末寺で、宗派は真言宗大覚寺派鎌倉時代に創建された古刹で、近世相良氏および人吉藩(相良藩)の菩提寺

概要

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願成寺は、人吉城[2]丑寅(北東)の方向で、鬼門にあたることから護としてこの寺が建てられたと云う。建立当初は山号は山崎山とされていた。開山となった遠江常福寺の僧・弘秀は、建久9年(1198年)に相良長頼(法名・蓮佛)が源頼朝の命令で下向した際に従って来た者である。金堂は、鎌倉勝長寿院大御堂を模して造られ、等身大の阿弥陀如来像を本尊した。建長6年(1254年)に長頼が亡くなると、遺命によって金堂前[3]に葬られた。これが切っ掛けで、後世、願成寺が菩提寺となることになる。

ただし、初代長頼以来、8代相良実長を除いて、歴代当主は願成寺に葬られていなかった。中世前期は主に佐牟田迎蓮寺[4]に葬られており、後期は永国寺を菩提寺とした[5]。12代相良為続は、文明12年(1480年)から2年かけて願成寺を再興して建て直し、新たな本尊を入れたが、本人は球磨無量寿院(現在は願成寺の塔頭、当時は別院)に葬られた。戦国時代の当主の墓所も、多くは郡外[6]にあって、初代藩主相良頼房(長毎)以前の先祖歴代の墓石は後になって移されたり、あるいは新たに造られたものである。

また、大永6年(1526年)に15代相良長定を瑞堅(相良長隆)が夜襲した乱の際に、観音寺・願成寺は兵火に焼け、特に願成寺は寺院・本堂・鎮守(仏像のこと)を尽く失った。その後、相良氏の跡目争いはしばらく続き、さらに戦国相良氏(上村系)の本拠地が八代に移ったこともあって同寺は顧みられなくなっていた。本堂なき後の35年間は住持らによって草庵が建てられ、阿弥陀堂とされていたが、18代相良義陽の頃に住持11世によって再興が願い出された。永禄4年(1561年)に建物や仏像の再建が始まり、同7年頃に完成した。木材の一部は隣国・島津義久から贈られた建材も含まれているという[7]。長頼の遺骨は掘り起こされ、金堂須弥壇に安置された。

文禄慶長の頃、13世住持・勢辰は紀州根来寺の僧兵出身で、頼房に従って文禄・慶長の役に従軍して、その功績で寺領300石を賜った。


郡外の八代市大口市等には墓所が残る場所もある。


相良家墓地

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高所に、初代当主相良長頼の霊廟を広く配置し、2代から37代相良頼綱までの歴代当主、当主の妻、親族(上村洞然など)の石塔が、幾つかの区画に分けられて、約250基ほど配されている。

また、関ヶ原の合戦の折に大垣城で、家老相良清兵衛秋月種長高橋元種兄弟によって、西軍武将福原直高(石田三成の妹婿)、熊谷直盛親子、垣見一直木村由信親子を謀殺したことを憐れんだ頼房によって、これに石田三成を加えた6基の供養塔が立てられている。

交通

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脚注

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  1. ^ 熊本県教育会球磨郡教育支会 1941, pp. 1191–1192.
  2. ^ 城下を「人吉」と呼ぶようになったのは2代相良頼親の頃[1]
  3. ^ 現在の本堂は、明治時代に再建されて移転(その後、大正11年に更に建て直し)しており、「金堂前」は現在の願成寺の裏山の相良家墓所をさす。
  4. ^ 佐牟田(さむた)は現在の人吉の中心市街地のある辺りで、長頼が球磨郡に下向したときに館を構えた場所でもある。迎蓮寺は廃寺となり、遺物は立興寺に移され、同寺没落後は、鐘音寺(浄土宗)へ、これが現在の大信寺(人吉市南泉田町)となった。
  5. ^ 7代相良前頼は戦死したため墓所不明。9代相良前続、11代相良長続永国寺、10代相良堯頼は永福寺(鹿児島県菱刈郡小苗代)に、元は葬られていた。
  6. ^ 13代相良長毎は高田龍成寺(八代市)、14代相良長祗は法寿寺(人吉市五日町)、15代相良長定は戒蔵院(人吉市鬼木)、16代相良義滋は八代蓮乗寺、17代相良晴広は八代林泉院に元は葬られていた。
  7. ^ 熊本県教育会球磨郡教育支会 1941, p. 538.

参考文献

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外部リンク

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