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太平記英勇傳91:清水長左衛門宗治(落合芳幾画) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文6年(1537年) |
死没 | 天正10年6月4日(1582年6月23日) |
改名 | 才太郎(幼名)、宗治 |
別名 | 通称:長左衛門 |
戒名 | 高松院殿救溺祐君清鏡宗心大居士 |
墓所 |
首塚 岡山県岡山市北区高松 備中高松城跡 岡山県総社市 備中国分寺 山口県光市 清鏡寺 |
主君 | 三村元親→毛利輝元 |
氏族 | 田使氏流難波氏→清水氏 |
父母 | 父:清水宗則、母:不詳 |
兄弟 | 宗知(月清入道)、宗治、難波宗忠 |
妻 | 正室:石川久智女 |
子 | 宗之、景治、難波宗定、女(中島元行室) |
清水 宗治(しみず むねはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備中高松城主。通称は長左衛門。清水宗則の子。三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となり、子供に宗之、景治、兄に宗知(月清入道)がいる。
三村氏、次いで毛利氏に仕えた。中国戦役で高松城に籠城して、羽柴秀吉による「高松の水殺し」に遭い、講和の条件として切腹して果てた。
生涯
[編集]天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる。幼名は才太郎といった。
備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。
また、永禄8年(1565年)に三村氏譜代の石川氏を裏切って高松城を奪取し、直接毛利氏に臣従して城主となったとの説もあるが、当時の毛利氏は備中を三村氏に任せる間接支配の体制を採っていたため、この説は信じ難い(備中方の資料にあたっても挙証に足るものはない)。いずれにせよ、毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
天正10年(1582年)、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する(備中高松城の戦い)。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われている。そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後に兄の月清入道や弟の難波伝兵衛、援将の末近信賀らとともに水上の舟において切腹した[1]。享年46[1]。
辞世の句
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
明治43年(1910年)2月15日、持宝院跡境内(岡山県吉備郡高松町大字立田小字辻)の清水宗治公首塚から、首瓶を発掘した。首瓶は直径一尺六寸、深一尺三寸七分の大きさで、頭蓋骨、三カ所に刃こぼれのある懐刀、土杯が入っていた[2]。
瓶は上部破損していたが、昭和32年に元の状態に修復されて高松城本丸跡に移設された。現在、玉藻公園内に清水宗治首塚がある。
人物像
[編集]毛利家からは忠臣として厚い信任を受けた。高松城攻防戦の際、信長の本隊が到達したら勝機無く毛利家は滅びる可能性があったため、毛利家首脳部は領土の大幅譲渡はやむを得ないとしても宗治の切腹は応じられないと拒否していた。それだけ毛利家から能力や忠義が評価されていた武将だった事が伺える[3]。
切腹について
[編集]戦国時代以前の武士道において、切腹の作法は確立していなかった。切腹の例はあったが、単なる自殺の手段のひとつであった。無念のあまり行う「無念腹」のように、内臓を引きずり出すなど、その凄惨ぶりを披露する場合もあった。
また、戦において捕らえられた高い身分の武士も、大抵は首を刎ねるのが普通であり、切腹させるといった習慣は無かった。場合によっては磔にする事もあった。
切腹の作法が変化する転機となったのは、この宗治の切腹からであった。水上に舟を漕ぎ出し、そして切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられた宗治の作法は見事であるとして、それを実際に見た武士達の賞賛を受けた。秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、「名将・宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったといわれている。また、後に隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。
これ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が広まり、また刑罰としても切腹を命じる習慣が広まった。後に秀吉は、豊臣秀次、千利休らを処罰するにあたって、切腹を命じている。
主題とする作品
[編集]- 小説
脚注
[編集]- ^ a b 楠戸義昭『戦国武将名言録』P71
- ^ 「国立国会図書館デジタルコレクション 清水宗治公首瓶」『観光の岡山』岡山宣伝社、1935年 。
- ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P70
参考文献
[編集]- 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所、2006年
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年 。
- 吉備群書集成刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 淸水宗治事蹟」『吉備群書集成. 第四輯』岡山宣伝社、1931年 。
関連項目
[編集]外部リンク
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