利用者:Quark Logo/sandbox林秀貞
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 天正8年10月15日(1580年11月21日) |
別名 |
通勝、信勝[1] 南部但馬[俗説]、南部勝利[異説] 通称:新五郎、弥助、佐渡守、若狭守 |
官位 | 佐渡守 |
主君 | 織田信秀→信勝→信長 |
氏族 | 尾張林氏(越智姓伊予河野氏支流) |
父母 |
[説1]父:林通安 [説2]父:林宏綱、養父:林勝隆 |
兄弟 | 秀貞、美作守(新九郎) |
子 |
光時(新三郞)[2]、光之(佐介)[1]、勝吉、宗信(茂右衛門)[3]、女(林通政室)[1] 養子:正三(宗兵衛) |
林 秀貞(はやし ひでさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の宿老。
通称は新五郎で、佐渡守の受領名も名乗り、林佐渡守の称でも知られる。諱は長年、通勝(みちかつ)と伝えられてきたが、『言継卿記』等の確かな史料には「林佐渡守秀貞」とあり、秀貞が正しい[4][6][7]。
生涯
[編集]出自
[編集]林氏は、越智姓河野氏の支流であり、同系の稲葉氏とは同族で、祖父の通村の代より美濃国安八郡林村に住んだことから林姓を名乗った。濃尾の国境に所領を持つ国衆であったようである。
ただし秀貞の出自には不明な点が多く、『河野系図』『美濃林氏系図』を基にした通説では、(佐渡守新五郎通勝の)父は美濃本巣郡の十七条城主通安(八郎左衛門)で、叔父は通忠とされるが、『尾張名所図会』『塩尻拾遺』などにある異説では、尾張春日井郡の狩宿城主林宏綱(越智宏綱[8])が(佐渡守弥助信勝の)実父で、清洲織田大和守家の織田達勝の重臣林九郎勝次の親族の勝隆の養子となったとする[9]。また林源左衛門信勝という人物もいるため、通勝・信勝を別人とする説もある。
このため経緯はよく分からないが、秀貞は尾張の戦国大名で織田弾正忠家の織田信秀に仕えて重臣となった。
弟に林美作守がいて、諱は一説に「通具」というがこれは確かではない。確かな史料には単に佐渡守・美作守の兄弟として登場している。
子に、光時(新三郞)[2]、光之(佐介)[1]、勝吉、宗信(茂右衛門)[3]の四子と、女婿に林通政(通忠の子、従弟)がいて、さらに通政の次男[10]・正三(宗兵衛)を養子としている。この正三(政秀)の子が、後の十七条藩主の稲葉正成である。
信秀・信勝の重臣
[編集]幼少の織田信長に那古野城(現在の名古屋市)が与えられた際に1番家老としてつけられた(『信長公記』)。2番家老は平手政秀であり、まさしく信長の後見役である。天文15年(1546年)に行われた古渡城での信長の元服では介添え役を務めた。当時の織田家臣団の例に漏れず秀貞も信長の奇行には頭を痛めており、天文21年(1552年)に信秀が死去すると信長の弟である織田信勝擁立を画策するようになる[11]。
弘治元年(1555年)に信長が織田信友を殺害して清洲城を占拠すると那古野城の留守居役に任ぜられた。その後も織田氏の諸分家を糾合するなどして戦国大名として頭角を表し始めた信長であったが、秀貞の不安と不満は解消されなかったようで、弘治2年(1556年)に柴田勝家や弟・林通具らとともに織田信勝を擁立して挙兵するが稲生の戦いで敗北する[12]。しかし信長からは許されて勝家とともに宿老の立場に据え置かれた[12]。ただ、秀貞は稲生の戦いには参戦しておらず、参戦していたのは勝家と通具であり、秀貞の動向は不明である[12]。
信長の筆頭家老
[編集]信長に赦免された後はこれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人等の外交や行政面を中心に活動した。秀貞は軍人というよりは政治家であり、信長が発給した政治的文書には常に署名している[12]。そのため武将としての派手な活躍機会は非常に少ない[13]。ただし全く軍人としての働きが無かったわけではなく、『信長公記』では播磨神吉城攻防戦などわずかながらも出陣した形跡はある[13]。ただ、恐らくは軍監か軍目付、後詰など予備部隊を率いる武将として従軍していたのではないかと推測される[13]。
政治的には信長からかなり重きに置かれており、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、信長の重臣と義昭の重臣が起請文を交わした際には秀貞が1番に署名している[13]。『言継卿記』によると山科言継が信長に拝謁する際には常に秀貞が奏者・取次役を果たしたとされている[13]。信長が開く茶会においても秀貞は他の重臣と共に招かれるのが常であり、天正7年(1579年)に安土城の天主が完成した際に信長は秀貞・村井貞勝の両名にだけ天主の見物を許しており、少なくとも追放の前年までは信長との関係は良好だった事が伺える[13]。
秀貞は行政官として堅実な手腕を持っていた事が信長に評価されたものと思われ、天正3年(1575年)11月に家督が織田信忠に譲られるとともに信忠付となった。その後は与えられた所領の面では柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)などに追い抜かれていくが、重臣筆頭としての地位を保っていた。
追放と最期
[編集]天正8年(1580年)8月、信長から24年も過去の信勝擁立の謀反の罪を問われて追放された[14][11]。この追放劇に関しては理由が24年も前の事柄であるため余りにも難癖じみており、その真相については不明な点が多い。『信長公記』では「仔細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」とある[14]。つまり信長がかつて信長包囲網で窮地に陥っている時に謀反を企てた、敵と通じたというのであるが[4]、この記述はあまり信用できない。一説に秀貞が老齢で役に立つ事が少なくなった、実力主義を採用していた信長にとって、秀貞に汚名返上をしない働きや現在の動きに不満があったという説があるが、それなら強制的に隠居をさせれば済む話であり、織田軍団に動揺を招く追放にした理由は不明である[13]。
『寛永系図』のよると、もとは南部姓であったというが、林正利の代で林姓に改めたとする[1]。
追放後は京都に居住し南部但馬と改名したり、安芸国に身を移したりして余生を過ごしたとされる[15]。ただ追放された時の秀貞は既に高齢であり、追放がよほどショックだったためもあってか、追放から2ヶ月後の10月15日に死去したと言われるが、定かではない。現在も、広島市内に墓石がある[15]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 尾張林氏」『姓氏家系大辞典』 第5、国民社、1944年、4874-4875頁 。
- ^ a b 天正元年の長島合戦で討死[1]。
- ^ a b 四男。子の信親は千賀重親の養子となった。
- ^ a b 川口 2008, p.221
- ^ 染谷光広 「信長の宿老林佐渡守と松永久秀の臣林若狭守」(歴史手帖)『日本歴史』361号、日本歴史学会編、1978年6月。
- ^ 歴史学者の染谷は、松永久秀の家臣の林通勝 (若狭守)と混同されたという説を主張して論文を発表している[5]。
- ^ 諱は「佐渡守信勝」とする史料もあり、子の林勝吉(のちの林一吉)や孫の林勝久が、「勝」を通字としている事から、また別説のように秀貞の養父を「林勝隆」とするならば、勝の字を含む名を名乗っていても不思議はない。初めは「通勝」か「信勝」で、後に主君である織田信秀の一時を与えられて秀貞と改名したか、織田信勝(信行)の名に憚って改名した可能性もある。
- ^ 田幡城を築城したという越智信高(越智通良)の子。
- ^ 加藤國光 1997, pp.106-107
- ^ 通政の長男は長正(市助)。
- ^ a b 川口 2008, p.222
- ^ a b c d 川口 2008, p.223
- ^ a b c d e f g 川口 2008, p.224
- ^ a b 川口 2008, p.220
- ^ a b 川口 2008, p.225
谷口 1995, p.106-107
参考文献
[編集]- 川口素生『戦国名物家臣列伝』学習研究社〈学研M文庫〉、2008年。ISBN 9784059012238。
- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、331-333頁。ISBN 4642027432。
- 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年、200-202頁。ISBN 4639016328。
- 加藤國光 編「稲葉・林氏」『尾張群書系図部集 上』続群書類従完成会、1997年、100-107頁。ISBN 4797105550。