利用者:Quark Logo/sandbox村井貞勝
京都府大雲院の村井貞勝像の模写 (東京大学史料編纂所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
改名 | 貞勝、春長軒(号) |
別名 | 吉兵衛、民部丞(通称) |
墓所 | 松林山春長寺(京都市下京区) |
官位 | 民部少輔、従五位下長門守 |
主君 | 織田信長、信忠 |
氏族 | 村井氏 |
兄弟 | 貞勝、宗信 |
妻 | 室:池田重利の娘[1] |
子 |
貞成、清次(専次とも)、慈光院(佐々成政正室)、女(前田玄以正室)、女(福島高晴正室)、女(村井重勝室) 婿養子:重勝(見性軒)[2] |
村井 貞勝(むらい さだかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の家臣で、奉行衆の筆頭格[3]。織田政権下の京都所司代。通称は吉兵衛、次いで民部丞[4]。官途は民部少輔、長門守。入道して春長軒(しゅんちょうけん)と号したので、村井春長軒ともいう。
生涯
[編集]信長の家臣
[編集]『太閤記』に拠れば、近江出身とされているが[3][5]、早くから織田信長の家臣として尾張で活躍していた。
生年は不詳だが、『言経卿記』の弘治2年(1556年)の1月28日条による誠仁親王の御所で行われた能楽で太鼓を担当した「朝日勝七」なる12、13の孫がいること、フロイスが弘治3年(1557年)9月19日付の文書に「尊敬すべき老年の異教徒」と呼んでいることから推測すると、永正17年(1520年)頃かそれ以前だと、谷口克広は考えている[6]。
天文年間と思われる7月25日付けの熱田社惣検校宛の連署名状に佐久間信盛・赤川景広・島田秀満(秀順)と共に「吉兵衛貞勝」と署名した発給文書が初見として残る[3]。
弘治2年(1556年)に織田信行(勘十郎信勝)が兄の信長に叛旗を翻した際、8月の稲生の戦いに信行が敗れて籠城すると、貞勝と秀満は二人の生母の土田御前に末森城に呼ばれて、信行から降参する意思を聞いて信長へ伝える役目を負った[7]。
永禄8年(1565年)6月、佐々政元・兼松正吉への計30貫文の宛行い連署書状に、貞勝・秀満・明院良政・木下秀吉・丹羽長秀で名を連ねる[3]。
永禄10年(1567年)8月1日、美濃三人衆が信長に通じたときに、貞勝・秀満は人質を受け取りに遣わされた[3]。
永禄11年(1568年)7月、足利義昭の迎えの使者に貞勝・秀満が派遣され[3]、9月の上洛にも同行[3]。山科言継は当時の貞勝を「織田雑掌」と呼んでいる[3]。
行政手腕に長けていたため、織田信長から厚い信任を受けて、早期より重用される。
信長が足利義昭と共に上洛した際も同行し、右筆の明院良政、・佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。
西美濃三人衆降誘の際の人質受け取り
や足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など、織田家の政務を担う。朝山日乗と共に京都御所の修築も担当している。
信長上洛後
[編集]足利義昭を追放した信長が京都を完全支配下に置いた後、天正元年(1573年)7月、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられる。松井友閑・武井夕庵・明智光秀・塙直政らの信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、およそ信長支配体制下における、京都に関する行政の全てを任されている。
天正3年(1575年)4月、信長は困窮した公家を救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。貞勝は丹羽長秀とともに、土地や文書の調査や係争を担当した。7月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。7月23日、貞勝は朝廷との繋がりも考慮されて正六位下・長門守に叙任される。10月19日には伊達輝宗の使者を接待した。
天正4年(1576年)4月、信長は足利義昭が使っていた二条御所とは別に、二条晴良の屋敷に新邸を築くことを決め、貞勝に普請を命じた。のちにこの新邸は、「二条御新造」「二条新御所」と呼ばれた。
天正5年(1578年)3月上旬、御所の修理が終わったため、貞勝は京都の町人に御所の築地塀の修復に協力するよう命じ、人数をいくつかの班に分けて作業を競わせた。築地塀の上では町人たちの歌や踊りが披露され、見物客が殺到し、周辺は大変な賑わいを見せた。あまりの賑わいに正親町天皇や貴族らも見物した。その賑わいの中で競い合わせて進めた修復工事は、瞬く間に完成したという。
天正8年(1580年)2月26日、信長は京都での居住場所を本能寺に移すことに決め、貞勝に普請を命じた。
天正9年(1581年)、出家して村井春長軒と号し、家督を子の貞成に譲っている。
本能寺の変での最期
[編集]天正10年(1582年)5月、貞勝は朝廷から「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」という意向を伝えられたが、これは貞勝の方から言い出したという説がある(三職推任問題を参照)。
6月2日、本能寺の変では本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。信忠に二条新御所への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠とともに討死した。また、子の貞成・清次も同所で討死している。
京都市の大雲院には、頭を丸めた老人という体の貞勝の肖像画が残っている。娘は佐々成政・前田玄以・福島高晴に嫁いでいる。
逸話
[編集]- ルイス・フロイスは貞勝を「都の総督」と呼び、「尊敬できる異教徒の老人であり、甚だ権勢あり」と評している。
関連作品
[編集]- 小説
- 壬生一郎『信長の庶子』(2019年~、既刊4巻)
- 研究
- 久野雅司「織田政権の京都支配―村井貞勝の職掌の検討を通して―」(『白山史学』3号、1997年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、434-442頁。ISBN 4642027432。
- 谷口克広『信長の天下所司代 筆頭吏僚 村井貞勝』中央公論社、2009年。ISBN 978-4-1210-2028-4。
関連項目
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