利用者:Quark Logo/sandbox宮部継潤
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄元年(1528年) または天文5年(1536年) |
死没 | 慶長4年3月25日(1599年4月20日) |
改名 | 土肥孫六→宮部善祥坊→継潤(法名) |
別名 |
坊号:善祥坊(善祥房) 通称:孫六、宮部法印、中務卿法印 |
主君 | 浅井長政→豊臣秀吉 |
氏族 | 近江土肥氏→宮部氏 |
父母 |
父:土肥真舜(刑部少輔) 養父:宮部清潤 |
兄弟 | 継潤、女(宮部肥前守[2]室) |
子 | 吉継、長煕 (長房)、宗治[要出典] |
宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天台宗の僧兵。豊臣秀吉の重臣で、豊岡亀城、鳥取城主。
生涯
[編集]浅井家滅亡まで
[編集]近江国坂田郡醒井[3]の豪族土肥刑部少輔真舜の子[4]。幼くして比叡山に登って行英坊に師事し、剃髪して僧侶となる。同国浅井郡宮部村[5]の湯次神社の社僧・宮部善祥坊清潤の養子となり、養父と同じ「善祥坊」を称したが、仏事に励むよりも武芸を好み、密かに下山して宮部に戻って、北近江の戦国大名・浅井長政に家臣として仕えるようになった。もともと山法師(僧兵)であったとも言う。
武勇に優れ、『武家事紀』に宮永新兵衛という弓の名手と一騎打ちして、放たれた三本の矢を槍で叩き落としたという逸話が書かれている。
継潤は、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、浅井家の重臣に列せられた。しかし小谷城の支城群の1つである宮部砦(宮部城)を守備していたが、形勢は不利で、織田軍による小谷城の包囲において横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙して、元亀3年(1572年)10月、その秀吉の調略に応じて寝返った[7]。寝返りの証として浅井側の国友村を攻めた際、浅井家の将野村直隆と争って、銃撃を受け負傷した。『信長公記』には、寝返りの話は出てこないが、信長が本陣を置いた虎御前山城と横山城の中間地点である宮部村と八相山に砦を作るように命じ、宮部村の砦は引き続き継潤が守るように命じている。
元亀4年/天正元年(1573年)、秀吉が小谷城攻めの責任者となると、継潤も与力となる。調略時の保証に秀吉の甥・治兵衛(後の豊臣秀次)を養子として受け取り、宮部吉継を名乗らせているが、実際には人質として差し出されていたようで、上下関係が逆転しため、浅井氏滅亡後から天正2年(1574年)の長浜城移転までの間に秀吉の元に返されている。この頃には継潤は実質的に秀吉の家臣であり、当時の家来衆としては大身の3,000石の扶持を与えられていた[8]。
秀吉の重臣
[編集]その後は、秀吉の与力につけられて天正5年(1577年)からは中国攻めに従い、主として秀吉弟の羽柴長秀(のちの秀長)に従いながら但馬国方面の攻略に貢献し、秀長が山陽方面に赴いた場合には秀長に代わって山陰方面全体の指揮を担った[9]。天正8年(1580年)頃には、山名氏討伐後に但馬豊岡城主として2万石を有している。鳥取城攻めでは最前線にあって吉川元春の援軍と戦い続けた[10]。荒木村重離反の際に村重の小姓から秀吉に転仕した荒木重堅(のちの木下重堅)、但馬平定を通じて羽柴方に従った垣屋光成・豊続、出雲国出身で、かつて山中幸盛と行動を共にしてきた亀井茲矩などは、いずれも継潤の配下として山陰方面での毛利勢との戦闘に参加したものと考えられる[11]。
天正10年(1582年)、山陰での戦功が認められ、因幡鳥取城の城代となった。また、本能寺の変時、鳥取城は毛利氏に攻撃される可能性が最も高い拠点であったが(山陽側は高松城の水攻めの影響で攻めることが不可能だった)、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと秀吉勢の主力が中国地方を離れている間も、その拠点を任され続けたことから秀吉の信頼の厚さがうかがえる。戦国時代研究者の谷口克広は、「この仕事は地味だけれど、秀吉をして心置きなく畿内で活躍させるための大きな力となったはずである」[12]として、その働きを評価している。
本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。天正13年(1585年)の佐々成政攻めや、九州平定にも南条元続、亀井茲矩、荒木重堅、垣屋光成らの軍を従えて参戦し、日向国高城にて島津家久軍を撃退している(根白坂の戦い)。九州征伐後、因幡・但馬国内で加増され、5万971石を知行。軍役は、前述の因幡・但馬の国人衆を含めてであろうが、5,350人とある(宮部文書)。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣。同年に嫡子である長房に家督を譲っているが、形式上なものであって本人が隠居したわけではなく、戦場での活動は減るものの、政務上での活動は続く。
隠居後
[編集]文禄元年(1592年)の文禄の役の際には、肥前名護屋へ在陣。渡海を要請したが許されなかった(吉川家文書)。文禄2年(1593年)には、大友義統が改易されたのちの豊後国の検地を山口宗弘とともに担当、また同年、因幡国巨濃郡蒲生郷荒井村に因幡銀山を開いて、秀吉から銀山経営を任されている。文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも参加。この時点で知行は8万1,000石に加増されている。慶長元年(1596年)、高齢を理由に隠居した。秀吉からの信任は厚く、晩年は秀吉の御伽衆として、秀吉の相談相手を務めながらも、秀吉重臣として政務にも関わった。
慶長4年(1599年)閏3月25日死去。享年は64[14]、72[4]など諸説ある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 谷口克広『信長軍の司令官』中央公論新社<中公新書>、2005年1月。ISBN 4-12-101782-X
- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、424-425頁。ISBN 4642027432。
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、187頁。ASIN B000J9GTRU
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、245頁。
- 小和田哲男『豊臣秀次 : 「殺生関白」の悲劇』(Kindle)PHP研究所、2002年、18-21頁。ASIN B00N2H4MGQ(新書版ISBN 456962104X)
- 『宮部継潤 朝日日本歴史人物事典』 - コトバンク