利用者:Quark Logo/sandbox増田長盛
増田(源)長盛像(栗原信充画) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文14年(1545年)[1] |
死没 | 元和元年5月27日(1615年6月23日) |
別名 | 增田、真下、通称:仁右衛門、右衛門少尉 |
墓所 | 平林寺(埼玉県新座市) |
官位 | 従五位下右衛門少尉、従四位下 |
主君 | 豊臣秀吉→豊臣秀頼 |
氏族 | 増田氏 |
兄弟 | 長盛 |
子 | 盛次 |
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、五奉行の1人。大和郡山城主。
生涯
[編集]秀吉に近侍
[編集]出自は不詳である。尾張の頃より木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕えたという話[6]と、長浜城主の頃の羽柴秀吉(同)に召し抱えられた[7]という2つの話があって、このために生地も2つの説があり、尾張国中島郡増田村[2][8]だったという説と、近江国浅井郡増田[3][9]だったという説がある。また、増田は「真下」と書いたとも云い[11]、これが正しければ「マスタ」「マスダ」は誤読で、地名の増田を益田と比定するのも正しくない。
前歴もよくわからないが、いずれにしても早くから秀吉に仕えた。尾張説では300石で[4]、近江説では石田三成と同じ頃、または天正元年(1573年)に秀吉に召し出され[12]、200石で仕えたという[10][7]。
天正10年(1582年)10月、竜庵(龍庵)と共に、奏者に任じられ、
上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増された。
奉行
[編集]天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[13][14]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[15]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の名で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六人聖人の殉教)の端緒を開いた。
郡山城主
[編集]文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[13][14]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[16]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後
[編集]慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[17]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし高名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。
元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
脚注
[編集]- ^ 享年71からの逆算したもの。初めて秀吉に伺候したのが28歳というのは極め遅く奇妙であり、何らの誤伝の可能性がある。
- ^ a b 現在の愛知県稲沢市増田町
- ^ a b 現在の滋賀県長浜市益田町。
- ^ a b 大日本人名辞書刊行会 1926, p.2438
- ^ 岡谷 1909, p.1095
- ^ 『野史』などを元にしている[4][5]。
- ^ a b 桑田 1971, p.91
- ^ 稲沢市増田南町の八幡神社に増田長盛邸址の碑が立っている。
- ^ 長浜市益田町の眞宗寺には、同寺住職の次男だった長盛が長浜城主秀吉に仕えた旨を記した碑が立っている。
- ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.228
- ^ 『天正年中大名帳』より[10]。
- ^ 長浜市元浜町に増田長盛屋敷跡の碑がある。
- ^ a b 斎藤司「豊臣期関東における増田長盛の動向」(『関東近世史研究』17号、1984年)
- ^ a b 川名登「里見氏家臣団組織の成立」(『千葉史学』56号、2010年)
- ^ 山本博文『天下人の一級史料』柏書房、2009年
- ^ 「島津家文書」二‐九七八
- ^ 重臣・石川民部を陣代として送ったという記録もある。石川の下、福西源次郎・大岡佐左衛門が軍奉行を務めた。
- ^ 久保天随『国立国会図書館デジタルコレクション 古今武士道史譚』育成会、1905年 。
参考文献
[編集]- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、91-92頁。ASIN B000J9GTRU
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、228-229頁。
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 下、大日本人名辞書刊行会、1926年 。
- 岡谷繁実『国立国会図書館デジタルコレクション 名将言行録』 前編 下、文成社、1909年 。