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利用者:Quark Logo/sandbox吉弘統幸

 
吉弘統幸
太平記三十六番相撲:第十三之番ト:吉弘喜兵衛(落合芳幾作)
時代 安土桃山時代
生誕 永禄6年(1563年
死没 慶長5年9月13日1600年10月19日
改名 松市(幼名)→太郎→統運→統幸
別名 通称:左近大夫、左近入道、嘉兵衛尉
戒名 統運院殿傑勝溫英大居士、柳巌宗紅大居士
墓所 豊後高田市の金宗院跡、別府市吉弘神社
主君 大友義統立花宗茂→大友義統
氏族 吉弘氏
父母 父:吉弘鎮信、母:玉流院妙泉(臼杵鑑速女)
兄弟 統幸茂吉(掃部助)、田北統員田北鎮周の婿養子)[1]統貞戸次統常
志賀道輝
政宣統吉正久、筑紫大膳、栗山利安継室
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吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)は、安土桃山時代武将大友氏の家臣。

生涯

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豊後国戦国大名・大友氏の家臣で屋山城城主・吉弘鎮信の子として誕生。幼名は松市太郎。はじめ統運と名乗り、天正11年(1583年)に統幸と改めた。

天正6年(1578年)の耳川の戦いで、父・鎮信が戦死すると、家督を継いだ。以後、衰退する大友氏の勢力挽回を目指し忠誠を尽くす。父の鎮信同様、平時は筧城により、詰城として屋山城[2]を保持していた。これは、同族の高橋紹運も同様な構成(平時の岩屋城と、要害の宝満城)をとっている事から、この地方特有の戦略であったと思われる。また、天正7年(1579年)の主君の大友義統が統幸にあてた書状の中で、義統は反旗を翻すと想定される田原本家に備えるため、秘密裡に屋山城を堅固に修築するよう要請しており、はたして天正8年(1580年)の田原親貫が反乱を起こすと、鞍懸城の攻略などで活躍した。

その後、大友氏が豊臣秀吉の傘下となり、豊臣氏による天正14年(1586年)の戸次川の戦いに従軍するも敗戦、その際に島津軍の追撃を受ける主君・義統を救援し、高崎山城、豊前竜王城へと逃した。ところが、天正20年(1592年)に参陣した文禄の役での主君・義統の失態により大友氏は改易。統幸は豊前国中津黒田如水に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に預けられた。後に従兄弟である柳川城主・立花宗茂の下へ身を寄せ、これに2,000石で仕え、慶長の役においては立花軍の4番隊を任された。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、立花家は西軍につくことを表明した。統幸は大友家当主・大友義乗徳川家に仕えていたため、大友家の旧恩に酬いようと立花家を暇請いし、義乗の元へ向う。その道中に大友家の再興を狙う前当主・義統と再会し、義乗のこともあり義統に東軍加担を進言するが、義統は聞き入れず西軍に加担したため、統幸もこれに従った。この際、旧領の屋山城に再び拠ったようである。

豊後国奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、細川家松井康之が守る杵築城を攻め、二の丸まで落とすも黒田軍の援軍が近づいてきたため攻略を断念。黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突した(石垣原の戦い)。統幸は自身も先陣に立って奮戦し黒田軍の先鋒隊を大損害に与え母里友信の率いる先鋒隊を破り、自身も小田九朗左衛門等三十余人の首級を挙げる活躍をし、黒田勢を相手に優位に戦を進めた。

しかし、如水の本軍がいつ到着するかわからないという戦況であったため、全体の士気が振るわず、次第に大友勢が劣勢となっていった。統幸は主君・大友義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃。七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれる。統幸の討死によって大友勢は事実上壊滅し、大友義統は母里友信を通じて、黒田如水に降伏した。

その際、屋山城は黒田如水に攻められ、統幸の妻を守るため城兵は僅かな兵力となっても応戦したが、多くは討ち死したといわれる。なお、統幸は死後、熊本藩士となった子孫によって、大分県別府市にある吉弘神社へと祀られた。

石垣原の戦い前夜に「明日は誰が草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」という辞世を残した。

人物

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吉弘統幸がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり。(黒田家譜により)

日頃より情が厚く、武の道に達しており、大将の器たる人物である。(豊後陣聞書により)

関連作品

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書籍
映像

脚注

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  1. ^ なお『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』 には弟として田北統員は登場しない
  2. ^ 屋山城は、通称八面山とも呼ばれる豊後高田市の屋山にあったとされる山城。標高543mの天然の要害を利用していた。全長500mの尾根頂部のうち、西側400mあまりにわたり堀切などを設け、直線的配置の郭が形成されている。長い土塁は、西南部に位置する虎口に向かう稜線に沿っており、ここから類推するに屋山城は相当広い縄張りを持っていたようであり、豊後最大の山城「山野城」にも匹敵する。廃城の時期は、 主君の改易直後と想定されており、それまでは、吉弘氏の詰め城であった。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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