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利用者:Pooh456/sandbox5

砂山 角野(すなやま かくや[1]1886年〈明治19年〉10月21日 - 1937年〈昭和12年〉8月15日)は、日本の光学技術者(写真レンズ設計者)。

概略

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学資が乏しく、通常の学業ルート(旧制中学校旧制高等学校官立大学)を進めなかった。いったん職に就いた後に一念発起し、苦学の末に、1918年(大正7年)7月、東京帝国大学 理科大学 理論物理学科を満32歳になる年度に卒業し[注釈 1]、前年の1917年(大正6年)7月に設立されたばかりの日本光学工業株式会社(現:株式会社ニコン)に入社した。

日本光学工業の学卒技術者第1期生として、若くして重責を担い、ドイツなど欧米先進国からの技術移入・日本光学工業独自の光学技術確立に貢献した。多くの光学機器を設計し、多くの特許を取得したが、日本光学工業に在職のまま満50歳で病没した。

生涯

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新潟県三島郡関原村(現:長岡市)で出生[2]

逓信省技手となる

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1907年(明治41年)11月、逓信官吏練習所技術科を満21歳で卒業した[3][注釈 2]。その後の砂山が、1910年(明治43年)から1914年(大正3年)まで、逓信省 本省 電気局に逓信管理局技手[注釈 3]として奉職したことが確認できる[4][5][6][7]

東京物理学校に学ぶ

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砂山については、

生家が貧しいために上級学校へ進めず、いったんは電信技手の職に就いた。その後、苦学して東京物理学校(現:東京理科大学)で学び、ついには東京帝国大学 理科大学 物理学科に進んだ。(要約)

旨が、日本光学工業における同僚であった芦田静馬による小伝「砂山角野氏(元『日本光学』設計部長)の思い出」(『兵器を中心とした日本の光学工業史』〈1955年〉に収録[2]に記されている。その後に刊行された書籍は、芦田の記述に拠っている(例:荒川龍彦『ニコン物語』〈朝日ソノラマ、1981年〉、小倉磐夫『国産カメラ開発物語』〈朝日新聞社、2001年〉)

また、砂山は、上級学校への進学資格を全て検定試験によって取得したという[8][注釈 4]

東京外国語学校 専修科 独語学科を修了

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一方で、1912年(明治45年)4月、砂山が東京外国語学校(現:東京外国語大学)専修科 独語学科に入学し([9])、1914年(大正3年)3月に修了した([10])ことが確認できる。

東京帝国大学 理科大学 理論物理学科を卒業、日本光学工業に入社

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正確な経緯は不明であるが、砂山は東京帝国大学 理科大学 理論物理学科[11](現: 東京大学理学部物理学科)に入学し、1918年(大正7年)7月に卒業して理学士を取得し[11]、同時に日本光学工業株式会社(現:株式会社ニコン)に入社した[2]。東京帝大では長岡半太郎教授に師事した[2]

日本光学工業に入社

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日本光学工業に入社した砂山は、藤井レンズ製造所(日本で最初に、欧米製品に近いレベルの双眼鏡の量産に成功した。日本光学工業の母体となった)から日本光学工業が引き継いだ、日本光学工業芝工場[12]に配属され、製品検査を担当した[2]

1925年(大正14年)7月、日本光学工業 設計部長に就任[2]

1928年(昭和3年)の2月から9月までヨーロッパに派遣され、ドイツ(光学技術の最先進国)・イギリスフランスオランダの光学工場を見学するなどして最先端の光学技術に触れた[2]。これは日本光学工業の社員が欧米留学した初めての事例である[13][注釈 5]。帰国後の砂山は、ドイツから持ち帰った長焦点写真レンズ(〈焦点距離:50センチメートル〔500ミリメートル程度)。「カール・ツァイス テッサー F/4.5」 など)を徹底的に分析した[15]

帝国陸軍向け航空写真レンズを設計

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日本光学工業の写真レンズ設計技術は、第一次世界大戦後にドイツから招聘したハインリヒ・アハト(Heinrich Acht。1921年〈大正10年〉2月から1928年〈昭和3年〉2月まで在職[14])に由来していた[15]。しかし、アハトの設計した写真レンズの性能は不十分であった[16]

アハトが去った後の1929年(昭和4年)、日本光学工業は、帝国陸軍から航空写真レンズの開発を要請された[16][17]

砂山は、

  • ツリマー〈Trimar〉 50センチ F/4.8(3枚玉)[15]
  • ニッコール〈Nikkor〉18センチ F/4.5(4枚玉、テッサー型)[15]

の2つのレンズを設計し、1933年(昭和8年)に日本光学工業から陸軍に納品された[18]

精機光学研究所向け「ニッコール 5センチ F/3.5」を設計

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1934年(昭和9年)の夏から初秋の頃[注釈 6]内田三郎ライカに匹敵する35ミリ距離計連動カメラの国産化を目指し、前年の1933年〈昭和8年〉に精機光学研究所〈現:キヤノン〉を創業した)らが、日本光学工業 本社(東京市品川区大井)を訪問し、日本光学工業の営業課長、営業課民需品係長浜島昇。後の日本光学工業 社長)の2名と面談して「精機光学研究所が開発しているカメラ向けの、5センチ標準レンズの供給」を打診した[20]

46年後の1980年(昭和55年)に、未だ壮健であった内田が、荒川龍彦に詳細な手記を渡し、かつ荒川のインタビューに応じた[21]。内田は、この日の出来事を下記のように証言している[22]

1935年(昭和10年)4月、日本光学工業 支配人附 兼 光学研究室 主任に転じた[2]

急逝

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日本光学工業に在職のまま、病により1937年(昭和12年)8月15日に急逝した[2]。満50歳没。

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の学制では、満24歳になる年度(以下「満24歳年度」)に帝国大学(3年制)を卒業するのが通常であり、砂山は8年遅れていた(尋常小学校〈6年制〉を満13歳年度に卒業→旧制中学校〈5年制〉を満18歳年度に卒業→旧制高等学校〈3年制〉を満21歳年度に卒業→帝国大学〈3年制〉を満24歳年度に卒業)。
  2. ^ 砂山は、逓信官吏練習所技術科を卒業したことで、旧制専門学校への進学資格を得たと思われる。
  3. ^ 戦前の日本の官庁では、旧制大学旧制専門学校で高等教育を受けた技術者のみが「技師」(高等官。陸海軍将校に相当)に任用され、それ以外の技術者は「技手」(判任官。陸海軍下士官に相当)止まりであった。
  4. ^ 東京物理学校が、専門学校令1903年〈明治36年〉3月に公布)を根拠法規とする旧制専門学校に昇格し、同校の卒業生に旧制大学進学資格(ただし旧制高等学校卒業者に劣後する扱い)が与えられたのは、専門学校令の公布から実に14年後の1917年(大正6年)3月であった。一方、砂山は東京帝国大学 理科大学 理論物理学科(3年制)を1918年(大正7年)7月に卒業している。よって、砂山が東京帝大理科大学に入学した時点(1915年〈大正4年〉9月と思われる)では、東京物理学校を卒業しても旧制大学進学資格を得られなかった。
  5. ^ 砂山が昭和3年にヨーロッパに派遣されるより前、大正8年に、日本光学工業 取締役 藤井光蔵が、技術者招聘の為にドイツに出張している[14]
  6. ^ 内田三郎らが日本光学工業を訪問した正確な日付は不明である。当時、日本光学工業設計部技師として、精機光学研究所35ミリ距離計連動カメラの心臓部分〈連動距離計、焦点調節機構など〉を設計した山中栄一〈後に日本光学工業重役〉は「前田らが訪ねてきたのは、昭和9年の暑い日であった」と証言している[19]

出典

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  1. ^ 池上 2010, p. 142
  2. ^ a b c d e f g h i 光学工業史編集会 1955, pp. 638–640, 芦田静馬『砂山角野氏(元「日本光学」技術部長の思い出)』
  3. ^ 通信協会雑誌 第5号(明治41年12月)』通信協会、1908年、574-576頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257386 
  4. ^ 職員録 明治43年(甲)』印刷局、1910年、693頁https://dl.ndl.go.jp/pid/779798/1/374 
  5. ^ 職員録 明治44年(甲)』印刷局、1911年、703頁https://dl.ndl.go.jp/pid/779800/1/383 
  6. ^ 職員録 大正2年(甲)』印刷局、1913年、736頁https://dl.ndl.go.jp/pid/927656/1/400 
  7. ^ 職員録 大正3年(甲)』印刷局、1914年、808頁https://dl.ndl.go.jp/pid/927658/1/442 
  8. ^ 荒川 1981, pp. 62–67, 第1章 ドイツ村の住人たち:3 冬の季節:アニターとニッコール
  9. ^ 『官報(明治45年4月23日号)』大蔵省印刷局、1912年、721-722頁。 
  10. ^ 「第11 卒業者及修了者:7 専修科修了者氏名:独語学科:大正3年3月第16回専修科修了生(17人)」『東京外国語学校一覧 昭和6年度』東京外国語学校 (旧制)、1931年、336-337頁。 
  11. ^ a b 「学士及卒業者姓名:理学士:理論物理学科」『東京帝国大学一覧 従 大正7年 至 大正8年』東京帝国大学、1919年、277-278頁。 
  12. ^ 日本光学工業 1960, pp. 20–27, 第1篇 創立時代:第3章 工場と製造の変遷:第1節 芝工場
  13. ^ 日本光学工業 1960, pp. 46–54, 第2篇 発展時代:第1章 発展への経過:第4節 事業の確立
  14. ^ a b 日本光学工業 1960, pp. 13–20, 第1篇 創立時代:第2章 当社の発足:第2節 ドイツ技術の導入
  15. ^ a b c d 日本光学工業 1960, pp. 523–546, 第5篇 技術:第12章 写真レンズ
  16. ^ a b 池上 2010, pp. 132–133, 4. 日本光学における写真レンズ研究開発
  17. ^ 光学工業史編集会 1955, pp. 397–409, 第4篇 陸軍航空光学兵器:第2章 航空写真器材
  18. ^ 池上 2010, pp. 130–131, 4. 国産写真レンズの誕生
  19. ^ 荒川 1986, p. 36
  20. ^ 荒川 1986, pp. 120–126, 第2章 創業の証言:
    一条の光
    初めて知った事実
    われわれが応援しよう
  21. ^ 荒川 1986, pp. 25–40, 第1章 神話と真実:2 創業者の復活
  22. ^ 荒川 1986, pp. 120–126, 第2章 創業の証言:3 命運をかける:
    一条の光
    初めて知った事実
    われわれが応援しよう

参考文献

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