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利用者:Poo tee weet?/c

Thutmose I
Early 18th dynasty statue head, perhaps Thutmose I (British Museum)
Early 18th dynasty statue head, perhaps Thutmose I (British Museum)
古代エジプト ファラオ
統治期間 1506–1493 BC (disputed),18th Dynasty
前王 Amenhotep I
次王 Thutmose II
配偶者 Queen Ahmose, Mutnofret
子息 Thutmose II, Hatshepsut, Amenmose, Wadjmose, Nefrubity
Unknown (believed to be Amenhotep I)
Senseneb
死去 1493 BC
埋葬地 KV38, later KV20
記念物 Pylons IV and V, two obelisks, and a hypostyle hall at Karnak
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トトメス1世はエジプト第18王朝のファラオ。先王のアメンホテプ1世の死後に王位を継承した。在位中にはレヴァントとヌビアへ深く侵攻し、エジプトの領土をかつてないほどに拡げた。国内には無数の神殿を建設するとともに、王家の谷に自らの墓を建てている。そもそもこれを習慣づけたのがトトメス1世である(アメンホテプ1世が先んじていた可能性もあるが)。後を息子のトトメス2世に継がせ、同様にその妹であるハトシェプストが続いた。在位期間は一般に紀元前1506年から1493年とされるが、一部の研究者は古代エジプトの記録から年代を測定するために用いられる占星術的な天体観測に注目し、それがテーベではなくメンフィスの街で行われたと考えており、したがってトトメス1世の在位も紀元前1526年から1513年ということになると主張している[2][3]

家族

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トトメスの父親はアメンホテプ1世と推測されている。母のセンセネブは王家の血筋ではなく、内妻か側室であった可能性がある[4]。トトメス1世のGreat Royal Wifeという肩書きをもったイアフメス2世は、おそらくイアフメス1世の娘であり、アメンホテプ1世の妹である[5]。しかしイアフメス2世が「王の娘」と呼ばれたことはないことから確かなことではなく、トトメス自身の妹だったと考える史家もいる[6]。アメンホテプと血縁関係にあるとすると、イアフメス2世は王位継承を確実にするためにトトメス1世と結婚させられたと考えられる。だがそれと矛盾する事実が2つあり、まずアメンホテプ1世のアラバスターでできた聖船休息所がカルナックに建てられているのだが、そこでは先王が亡くなるだいぶ以前からアメンホテプ1世とトトメス1世の名が結びつけられている[7]。次にトトメス1世とイアフメス2世の最初の息子アメンメスは明らかにトトメス1世が即位するかなり前に生まれている。在位4年目からメンフィス近くの石柱に名前が見られ、トトメス1世自身が在位12年目に亡くなる前にアメンメスは没するのだが、それまでのある時期に「その父の偉大なる軍事司令官」となっている[8]。トトメス1世はイアフメス2世との間にもう1人の息子ウアジュメスと2人の娘ハトシェプストとネフェルービーティーをもうけている。ウアジュメスは父の生前に亡くなり、ネフェルービーティーもごく幼いうちに亡くなっている[9]。トトメス1世には別の妻ムートネフェレトとの間にも息子が1人おり、この子を娘のハトシェプストと結婚させ、トトメス2世として後を継がせている[9]。後にハトシェプストが記させたところでは、トトメス1世はトトメス2世とハトシェプストの両者に王位を望んでいたことになっている。しかしこれはその後権力を握り王位につこうとするハトシェプストを正当化するために側近が流した情報だと考えられている[10]

在位期間

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ソティスの日出昇天がトトメス1世の先王アメンホテプ1世の治世中に記録されている。それがテーベで観測されたと仮定すると、紀元前1517年のことになる[11]。アメンホテプ1世の死とそれに続くトトメス1世の即位の年代はそこから導き出すことができ、現代では紀元前1506年のことだとされている。しかしごく一部の学者が唱えるようにヘリオポリスかメンフィスのどちらかで観測されたものであれば、トトメス1世の戴冠は紀元前1526年になる[12]

マネトによればトトメス1世の治世は12年と9ヶ月(あるいは13年間)続いた。as a certain Mephres in his Epitome.[13]。この日付はカルナックの石塊に刻まれたトトメス1世のカルトゥーシュに示された治世期間が8年と9年という2つの日付がはいった碑文からも確かめられる[14]。したがってトトメス1世は低年代説ではふつう紀元前1506年から1493年の在位とされるが、一部には紀元前1526年から1513年とする研究者がいる[11]

軍事的功績

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The maximum territorial extent of Egypt (XVth century BC)

トトメスが即位した直後に、ヌビアがエジプトの支配に反旗を翻した。イバナの息子イアフメスの自伝碑文によると、トトメス1世はナイル河を上って戦いを挑み、自らの手でヌビアの王を殺した[15]。そしてテーベに凱旋する船の舳先にその死体を吊させた[15]。戦いを終え、在位3年目となった王は再び遠征軍を率いてヌビアへ向かった。その途中で、第1カタラクトの水路を浚渫するよう命じている。これによりエジプトから河を遡ってヌビアへ向かうことが容易になり、ヌビアはエジプトに組み込まれた[9]。この軍事行動は王の息子Thureによる2つの別々の碑文で言及されている[16]

Year 3, first month of the third season, day 22, under the majesty of the King of Upper and Lower Egypt, Aakheperre who is given life. His Majesty commanded to dig this canal after he found it stopped up with stones [so that] no [ship sailed upon it]; Year 3, first month of the third season, day 22. His Majesty sailed this canal in victory and in the power of his return from overthrowing the wretched Kush.[17]

在位2年目にトトメス1世はトンボスに石碑をつくらせている。碑文が記すところでは、王は第3カタラクトにほど近いトンボスに城塞を築き、それまで第2カタラクトのブーヘン止まりだったエジプトの軍事的な存在感が恒久的に強まったとある[18] 。これはファラオがすでにシリアへも軍隊を送っていたことを示すものであり、したがってシリア遠征は在位2年目の初めに行われたものと考えられる[19]。そこはかつてのエジプト支配者が兵を差し向けたことのないはるか北東の地だった。現存しているものは見つかっていないが、ユーフラテス川を越えたときに石碑を建ているようである[20]。遠征の間にシリアの諸侯はトトメス1世に服属を約束したが、エジプトのファラオが帰国すると、進貢は滞り、将来の敵にそなえて守りが固められはじめた[9] 。トトメス1世は勝利を祝い、シリアのアパメアの近く、ニヤで象狩りを楽しんだという。その後エジプトにはユーフラテス川の不思議な話が伝えられている。いわく「下りに流れるはずの水が逆方向に流れていた」[9]。ユーフラテス川はエジプト人が初めて出会った北から流れる川であり、ちょうど南から流れそちらを上流とするナイル川の反対だった。そのためエジプトでこの川がそのまま「逆流している」と考えられたのである[9]

トトメス1世は在位4年目にもヌビアの新たな反逆に立ち向かわねばならなかった[20]。権力の座についている間、トトメス1世はいくつもの事業を始め、それが奏功して後の500年にわたってヌビアの独立を許さなかった。ナイル川を挟んでセムナの対岸にあるセムナセンウセルト3世とクヌムクヌムの神殿を増築している[21]。独特の祭祀を行ったという記録もあり、エルカブの総督はヌビアの神殿で王の代理としてふるまうことになっていた[22]。またトゥーリーという人物をクシュ総督に任命しており、「クシュ王の息子」という名も伝わっている[23]。さらに期限を定めることなくヌビアをヌビア人におさめさせたため、この地はかつてほどエジプトに反抗的でなくなり、その後のエジプト王たちの支配にも従順になった[19]

建設事業

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Stela of Thutmose I in the Cairo Museum
Court of the 4th pylon: obelisk of Thutmose I at Karnak

トトメス1世は在位中に神殿や墓所をはじめとした大規模な建設事業を進めたが、その白眉が建築家のイネニに指揮をとらせたカルナックの神殿である[24]。それまでのカルナックは、中央の高台までの長い道が敷かれているだけで、その道沿いに聖戦休息所となる無数の社が建っているという場所だったが、トトメス1世は初めてこの神殿を劇的に増築した[25]。まず神殿の本道に沿って、内部の聖域と入り口の脇に立てられた2本の旗竿のまわりに巡らされた壁に第5ピュロンを建造した[25]。外側には第4ピュロンとさらなる壁を巡らせた[25]。2本のピュロンの間にはシダーウッドの柱をそなえた列柱室をもうけた。こういった構造は古代エジプトの神殿に共通するものであり、おそらくエジプトにおいて創造のシンボルである沼地に見立てている[26]。そのかどごとには交互に上下エジプトの王冠を戴いた巨大な彫像を立てた[25]。そして第4ピュロンの外側にさらに巨大な旗竿と2本のオベリスクを立てた(そのうちの1本は今では倒れてしまった)[25]。碑文が彫られるのはおよそ50年後のトトメス3世の時代だった[24]。トトメス1世の列柱室に使われたシダーの柱はまたトトメス3世によって石柱に交換された。ただし少なくとも一番北側にある2本はトトメス1世自身が交換したものである[24]。ハトシェプストもこの列柱室に自身のオベリスクを2本建てている[25]

カルナックだけでなく、ファラオの建設事業はアビドス、エル・ヒバ、アルマント、オンボス、メンフィス、エドフにも及んだ。小規模なものであれば、ヌビア、セムナ、ブーヘン、アニバ、クバーンにも見ることができる[27]

トトメス1世は確実に王家の谷で埋葬された最初の王である[20]。イネニが墓所の採掘を任され、おそらく葬祭殿も監督した[8]。まだ発見されていないの理由として、デル・エル・バハリにハトシェプストの墓が造られたときにそれと一体化されたか、取り壊されたというのが非常に有力な説である。今のところトトメス1世の墓はKV38だとされていて、そこには黄色珪岩でできたサルコファガス(石棺)がありトトメス1世の名が示されている[5]。しかし亡骸はトトメス3世によってハトシェプストの墓、KV20へと移された。おちらにもトトメス1世の名が記されたサルコファガスが治められている[20]

死と埋葬

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孫のトトメス3世の治世中にトトメス1世のためだけに建てられたKV38ではなく、もともとKV20に埋葬され、その後に娘のハトシェプストと共にもう一度埋葬された、というのが「KV38の建築様式と内装を近年行われた再調査」をもとにしたトトメス1世の埋葬に関する説である[28]。そうでなかったとしても、KV20の位置は1799年のナポレオンの遠征の時代から有名であり、1844年にプロイセンの学者カール・リチャード・レプシウスがその上昇通路を部分的に探索している[29]。しかし、どの通路も「洪水によって墓のなかに運ばれた小石やゴミが巨大な塊となって塞がれていた」。1903年から04年にかけて行われた発掘によって、それまで2度の精力的な作業を行っていたハワード・カーターが初めて通路を開け、二重になった埋葬室に入ることを可能にした[29]。そこでは埋葬室や下降通路の壊れた陶器や石器の瓦礫にまじって、イアフメス・ネフェルタリ王妃のためにつくられた一対の花瓶が遺されていた。これは本来トトメス1世の副葬品の一部であった。花瓶の1つには碑文が刻まれ、トトメス2世が「父に捧げた記念物〔をつくった〕」と補記されている[30]。トトメス1世の名や称号が記された器は他にもあるが、それらも息子であり後継者でもあるトトメス2世によって彫られたものである。同様に女王になる前のハトシェプストのためにつくられた石器の断片にも、やはりハトシェプストが自分の名で王位についた後にしかつくられていないだろう他の器と同じく「マアトカラー」という王名が記されている[31]

Hatshepsut donated this quartzite sarcophagus which was made in her reign for the reburial of her father, Thutmose I, in KV20 (Museum of Fine Arts, Boston)

一方でカーターは葬祭殿に2つの異なる棺を発見してもいる。美麗に切り出されたハトシェプストの石棺は「ふたが開き亡骸の痕跡もないままに発見され、おおいは床に打ち棄てられていた」。これはいま揃いの黄色珪石でできたカノポス厨子と並べてカイロ博物館におさめられている[31]。もう1つの石棺はその傍らに置かれていた。ふたはそばの壁にたてかけられていたが、ほとんど無傷だった。こちらは最終的に発掘のスポンサーであり、金銭的な支援を惜しまなかったセオドア・デイヴィスへの感謝のしるしとして贈られた[31]。後にデイヴィスはそれをボストン美術館に寄贈している。この2つ目の石棺はもともと「上下エジプトの王、マアトカラー・ハトシェプスト」という銘がはいっていた[31]。しかし、石棺が完成した後、ハトシェプストは自分のために全く新しい棺をつくらせることを決め、それまでの石棺を父親であるトトメス1世に捧げることにした[31]。そこで石工は元々入っていた銘を消そうと珪石の表面に手を加え、代わりにトトメス1世の名と称号が彫られたのである。この珪石の石棺は長さ7フィート、幅3フィート、厚みは5インチという寸法で、ハトシェプストが父にみせる器量を述べた献詞が記されている。

...long live the Female Horus...The king of Upper and Lower Egypt, Maatkare, the son of Re, Hatshepsut-Khnemet-Amun! May she live forever! She made it as her monument to her father whom she loved, the Good God, Lord of the Two Lands, Aakheperkare, the son of Re, Thutmosis the justified.[32]

しかしトトメス1世は、娘の死後にその隣に葬られるだけではなかった。ハトシェプストの後を継いだトトメス3世はより壮大な墓であるKV38に祖父を埋葬し直すことにした。KV38にはトトメス1世に捧げられたもう一つの黄色珪石のサルコファガスがあり、それにはトトメス3世が亡き祖父にもつ愛を物語る碑文が彫られている[33]。だが不幸なことにトトメス1世の遺品は第20王朝の時代にKV38が盗掘を受けた際に荒らされてしまう。石棺のおおいは破壊され、王家の貴重な宝石や副葬品は盗み出されてしまった[33]

1881年、トトメス1世のミイラは最終的にデル・エル・バハリのハトシェプストの葬祭殿の上にあるカシェで発見された。トトメス1世とともに多くのファラオが埋葬されており、イアフメス1世、アメンホテプ1世、トトメス2世、トトメス3世、ラメセス1世、セティ1世、ラメセス2世、ラメセス9世といった第18王朝、第19王朝の指導者たちやパネジェム1世、パネジェム2世、サアメンという第21王朝のファラオが名を連ねる。

本来トトメス1世の棺であったが、後の第21王朝のファラオにも引き継がれ、再利用されていた。そのミイラは失われてたと考えられているが、類縁であるトトメス2世、3世のミイラの強度を主な根拠として、エジプト学者のガストン・マスペロは未分類のあるミイラ#5283がトトメス1世のものだと考えた[34]。その後の調査で防腐処理に用いられている技術がイアフメス1世より後のものであり、第18王朝の時代であることがほぼ明らかになり、この仮説が裏づけられた[35]

ガストン・マスペロはミイラを次のように表現している。

王は亡くなった当時、すでに齢を重ね、50歳を越えていた。それは混ぜ物が多いエジプトのパンを噛むことですり減り、弱くなる切歯で判断できる。身体は小さく、やせているが、同時に例外的な頑強さの証左ともなっている。頭は禿ているが容貌はすぐれ、口もとには鋭く抜け目のない表情が現れている[34]

トトメス1世のものと考えられているミイラはカイロのエジプト博物館に展示されている。しかし2007年にザヒ・ハワスがこのミイラは胸に負った矢傷がもとで死んだ30代の男だと発表した。年齢と死因とは、このミイラがおそらくトトメス1世のものではないことを決定づけられた[36]

関連項目

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脚注

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  1. ^ Clayton, Peter. Chronicle of the Pharaohs, Thames and Hudson Ltd, paperback 2006, p.100
  2. ^ Grimal, Nicolas. A History of Ancient Egypt. p.202. Librairie Arthéme Fayard, 1988.
  3. ^ Ancient Egyptian Chronology, chapter 10, Egyptian Sirius/Sothic Dates and the Question of the Sirius based Lunar Calender, 2006 Rolf Krauss pgs. 439-457
  4. ^ [1] accessed 2 May 2010
  5. ^ a b Gardiner 1964 p. 176
  6. ^ Bleiberg (2000) p.400
  7. ^ Grimal (1988) p.203
  8. ^ a b Gardiner (1964) p.179
  9. ^ a b c d e f Steindorff (1942) p.36
  10. ^ Erman (1894) p.43
  11. ^ a b Grimal (1988) p.202
  12. ^ Helk (1983) pp.47-9
  13. ^ Manetho's Kings”. 2002年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年12月30日閲覧。
  14. ^ Jürgen von Beckerath (1997), p.120
  15. ^ a b Steindorff and Seele (1942) p.34
  16. ^ Lorna Oakes, Pyramids, Temples and Tombs of Ancient Egypt, Hermes House, 2003. p.207
  17. ^ Oakes, op. cit., p.207
  18. ^ Breasted (1906) p.28
  19. ^ a b Steindorff and Seele (1942) p.35
  20. ^ a b c d Shaw and Nicholson (1995) p.289
  21. ^ Erman (1894) p.503
  22. ^ Breasted (1906) p.25
  23. ^ Breasted (1906) p.27
  24. ^ a b c Breasted (1906) p.41
  25. ^ a b c d e f Grimal (1988) p.300
  26. ^ Shaw (2003) p.168
  27. ^ Thutmosis I”. touregypt.net. 2006年8月2日閲覧。
  28. ^ Joyce Tyldesley, Hatchepsut: The Female Pharaoh, Penguin Books, hardback, 1996. pp.121-25
  29. ^ a b Tyldesley, p.122
  30. ^ Tyldesley, pp.123-24
  31. ^ a b c d e Tyldesley, p.124
  32. ^ Tyldesley, p.125
  33. ^ a b Tyldesley, p.126
  34. ^ a b Maspero, Gaston. History Of Egypt, Chaldaea, Syria, Babylonia, and Assyria, Volume 4 (of 12), Project Gutenberg EBook, Release Date: December 16, 2005. EBook #17324. http://www.gutenberg.org/dirs/1/7/3/2/17324/17324-h/v4c.htm#image-0047
  35. ^ Smith (2000) p.25-28
  36. ^ Anderson, Lisa (14 July 2007). “Mummy awakens new era in Egypt”. Chicago Tribune. http://www.chnpress.com/news/?section=2&id=7226 

参考文献

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外部リンク

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西村洋子 (2007年10月7日). “古代エジプト史料館 - 古代エジプトの歴史:16.  第18王朝(紀元前1,550~1,295年頃)(1)”. 2012年4月26日閲覧。