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アーネスト・ヘミングウェイ' | |
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1939年のヘミングウェイ | |
国籍 | アメリカ |
主な受賞歴 |
ピューリッツァー賞 (1953) ノーベル賞 (1954) |
配偶者 |
エリザベス・ハドリー・リチャードソン (1921–1927) ポーリン・ファイファー (1927–1940) マーサ・ゲルホーン(1940–1945) メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ (1946–1961) |
子供 |
ジャック (1923–2000) パトリック (1928–) グレゴリー (1931–2001) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
アーネスト・ヘミングウェイ (1899年7月21日– 1961年7月2日)はアメリカ人の作家でありジャーナリスト。簡潔で抑制のきいた文体は20世紀のフィクションに大きな影響を与え、冒険家としての生涯をはじめ彼の社会的なイメージも後の世代にとって存在感を持った。ほとんどの作品は1920年代半ばから1950年代の中頃に書かれており、ノーベル文学賞を受賞したのも1954年である。7冊の長編小説、2冊の短編集を出版し、ノンフィクションの著作もある。死後にも3つの小説と4つの短編集、4つのノンフィクションが刊行されており、いまやそれらの多くがアメリカ文学の古典とみなされている。
ヘミングウェイはイリノイ州オークパークで育った。高校を卒業した後は「カンザス・シティ・スター」紙の記者を数ヶ月務め、第一次世界大戦の救急車運転手としてイタリア戦線に立った。1918年に重傷を負って帰国しているが、こうした戦争中の経験は小説『武器よさらば』の土台になっている。1922年にハドリー・リチャードスンと(4人妻を持った中で最初の)結婚をした。新妻とパリへ行き、外国特派員の仕事をこなすとともに、外国人コミュニティで1920年代の「ロスト・ジェネレーション」の作家や芸術家のモダニズムから影響を受けた。そして最初の小説である『日はまた昇る』が1926年に出版された。
1927年にハドリーと離婚したヘミングウェイは、その後ポーリン・ファイファーと結婚するが、ジャーナリストとして赴いたスペイン内戦から帰国した直後に離婚している。そして『誰がために鐘は鳴る』が書かれ、マーサ・ゲルホーンが三人目の妻となるのは1940年のことである。しかしやはり離婚し、ヘミングウェイは第二次世界大戦中のロンドンでメアリー・ウェルシュと出会った。そしてノルマンディ上陸とパリの解放とに立ち会うことになる。
『老人と海』が1952年に出版されてまもなくアフリカへ冒険旅行に出かけ、飛行機事故で瀕死の重体となる。助かりはしたものの、その後の大半の人生を傷みと不調に耐えて生きなければならなくなる。ヘミングウェイははじめフロリダ州キーウェストで暮らし、その後1930年代と1940年代はキューバの永住資格をとりそこで過ごした。1959年にアイダホ州ケッチャムに移住し、1961年の夏に自殺を遂げた。
生涯
[編集]青年時代
[編集]アーネスト・ヘミングウェイは1899年7月21日にシカゴにほど近いイリノイ州オークパークで生まれた[1]。父のクラレンスは医師で、母のグレイスは演奏家だった。両親ともに高い教育を受けており,保守的なオークパークのコミュニティでもたいへんに尊敬されていた[2]。ここの住民であったフランク・ロイド・ライトによれば「教会が多くあり、善良な人々がもっとここを訪れても良い」[3] 土地だった。2人は結婚してからのわずかな間[4]、グレイスの父アーネストと同居していて、長男の名前もこの人物からとってつけられた[note 1]。後にヘミングウェイはこの名前が嫌いだったと語っている。「オスカー・ワイルドの戯曲『真面目が肝心』(原題はThe Importance of Being Earnest)のナイーブを通り越して愚かな主人公を思い出すから」だという[5]。その後家族は寝室が7部屋もある家に引っ越している。都合よく近隣にはグレイスのための音楽スタジオが、父のために診療所があった[2]。
街では時折コンサートが開かれ、ヘミングウェイの母はよくそこで楽器を演奏していた。成人を迎えたヘミングウェイはそんな母を憎んでいたことを告白しているが、伝記作家のマイケル・レノルズは母親の情熱や行動力がそっくり息子に受け継がれていると指摘している[6]。グレイスがしきりにチェロを学ぶよう息子に言い聞かせ、それが「いさかいの種」にもなったが、後にヘミングウェイは音楽の授業を受けたことが執筆活動にも役だったと認めている。それは『誰がために鐘は鳴る』のポリフォニックな構造にも明らかだろう[7]。音楽以外では、ミシガン州のペトスキー近郊にあるワルーンレイクにはウィンドミアというヘミングウェイ一家の別荘があり、少年時代の彼は北ミシガンの森や湖に囲まれ狩りや釣り、キャンプを知った。この幼い頃に自然の中で過ごした経験は、外の世界へと冒険したいという情熱を育むと同時に、人里離れた土地で孤独に暮らしたいという思いにつながった[8]。
1913年から1917年にかけてヘミングウェイはオーク・パーク・リバーフォレスト高校に通い、文字通り幾つもの、ボクシングやトラック競技、フィールド競技、水球、サッカーといったスポーツを経験した。英語の授業でも優秀な成績をおさめ(excell)、姉のマルセリーヌとともに2年間スクールオーケストラにも参加していた[6]。2年目にはファニー・ビッグスが教えるジャーナリズムの授業をとったが、そこで「まるで新聞社のような教室」を体験した。クラスのなかでよく書けると認められた者は校内紙である「The Trapeze」に寄稿できることになっていたが、その通りにヘミングウェイは姉とともに短い記事を載せることができた。1916年1月に発行されたその最初の文章はシカゴ交響楽団の地元での演奏についての記事だった[9]。その後も寄稿や編集を続け、校内紙であり年鑑も兼ねていた「Tabula」にも関わるようになった。スポーツ記者の文体を模倣し、ペンネームとしてリング・ラードナー・ジュニアを名乗った。これは「Line O'Type」と署名していたシカゴ・トリビューンのリング・ラードナーを含みにしたものである。マーク・トウェインやスティーヴン・クレイン、セオドア・ドライサー、シンクレア・ルイスなどと同様に、小説家になる前のヘミングウェイはジャーナリストだった。高校を出たヘミグウェイは新人の記者として「カンザス・シティ・スター」の仕事を始める[10] 。結局そこにいたのは6ヶ月だけだったが、そのスタイルマニュアルは執筆活動の出発点となった。いわく「短いセンテンスで、短いパラグラフで、情熱的な英語で書く。ポジティヴに、ネガティヴになるな」[11]。
第一次世界大戦
[編集]1918年のはじめ、カンザスシティでは赤十字が人員を募集していたため、ヘミングウェイは北イタリアで救急車の運転手をするという契約をした[12]。5月にはニューヨークを離れ、ドイツ軍の砲撃を受けていたパリに到着した[13]。6月までにイタリア戦線の最中に到着し、ミランについた初日に爆発した弾薬工場に回された。そして救急隊はばらばらになった女性労働者の遺体を探してまわった。この事件はノンフィクションである『午後の死』にも書かれている。「遺体を完全な状態にするため徹底的な捜索をして、一部ずつ集めていったことを覚えている」[14]。数日後にはフォッサルタ・ディ・ピアーヴェに入った。7月8日、前線の兵士にチョコレートと煙草の箱を届けにいった帰りに迫撃砲の攻撃によって酷い怪我を負った[14]。しかし重傷にも関わらずイタリア軍の兵士を安全地帯にまで運んだことによってヘミングウェイはイタリア政府から勲章[15]を授けられた[13]。ヘミングウェイはこの、まだ18歳だった時のことを「少年になって戦場へ行けば、自分が死なないという幻想にはいくらでも浸れる。他の人間が殺されても、自分だけは…と思うが、一度重い怪我をすれば幻想は消え去って自分にも順番も来るのだとわかる」と語っている[16]。両足は爆発物の破片が突き刺さって重傷であったため物流基地で緊急手術が行われ、五日間を野戦病院で過ごした後に療養のためミラノにある赤十字病院に搬送された[17]。6ヶ月の入院の間に、ヘミングウェイはエリック・ドーマン=スミスと出会い、何十年も続く固い友情を結んだ。そして入院中に赤十字で看護婦をしていた7歳年上のアグネス・フォン・クロウスキーと人生で初めての恋に落ちる。1919年の1月にヘミングウェイは退院してアメリカに帰国するが、その頃には母国で数ヶ月後に結婚する計画もたてていた。しかし3月になってアグネスからイタリア人の士官と婚約をしたという手紙を受けとった。伝記作家のジェフリー・メイヤーズによれば、アグネスに拒絶されたヘミングウェイは打ちのめされ、自分が捨てられる前に妻を捨てるというパターンを繰り返すようになる[18]。
トロント・シカゴ時代
[編集]ヘミングウェイは再調整が行われた1919年の初めに帰国している。まだ20歳にも満たなかったが戦争を経験して成長したヘミングウェイにとって、療養するでもなく職もないまま家で過ごす現実は受け入れがたいものだった△[19]。「ヘミングウェイは両親に血まみれの膝を自分がみたときのことを本音で語ったわけではない。異国の地で医者にかかることのどれだけ恐ろしかったことか。足が切り話されても、英語で教えてくれるわけではないのだ△」とレノルズは言う[20] 。夏には高校の友人たちと旅に出かけ釣りやキャンプを楽しみ[16]、9月にはアッパー半島で独り野外で寝泊まりするということを1週間続けた。この小旅行の経験から『二つの心臓の大きな川』のインスピレーションが得られた。自伝的な要素が色濃く、戦争から帰還した主人公のニック・アダムスが孤独を求め釣りに向かうという物語である[21]。しばらくして家族づきあいをしていた友人からトロントでの仕事を紹介されるが、ヘミングウェイに断る理由はなかった。こうしてこの年の終わり頃には「トロント・スター・ウィークリー」のフリーライター兼外国特派員となる。翌年6月にはミシガンへと戻り[19]、友人と暮らすために1920年9月にシカゴへ移り住んだが、この頃も「トロント・スター・ウィークリー」に記事を書き送っていた。
シカゴ時代は月刊誌「コーポラティヴ・コモンウェルス」の共同編集者として働き、ここで小説家のシャーウッド・アンダーソンにも出会った[22]。そしてセントルイス出身のハドリー・リチャードソンが、ヘミングウェイのルームメイトの姉に会うためシカゴを訪れると、彼は興奮して後に「あの人は知ってるぞ、俺が結婚する人だ」と言ったという[23] 。赤毛のハドリーは「nurturing instinct」で、ヘミングウェイより8歳年上だった[23]。年齢差こそあったが、ハドリーは過保護な母親に育てられ、同世代の女性よりも幼いところがあった[24]。「ヘミングウェイの女たち」の著者バーニス・カートによれば、ハドリーはアグネスを思わせる女性だが、同時に幼さもあった。数ヶ月の交際を経て2人は結婚してヨーロッパへ行くことを決めた[23]。目的地はローマのはずだったが、シャーウッド・アンダーソンは代わりにパリを訪れるよう説得し、若いカップルに向けて街を紹介する手紙を書いた[25]。1921年9月には結婚を済ませ、2ヶ月後には「トロント・スター」誌の海外特派員という仕事も得たため、2人はパリへと旅だった。この結婚についてメイヤーズはこう言っている。「ヘミングウェイはアグネスとの間に望んでいたことを全てハドリーでかなえたことになる。美しい女性との恋愛、十分な収入、ヨーロッパでの生活を彼はものしたのだ」[26]。
パリ
[編集]アンダーソンがパリを薦めたのは「為替レート」が良いため生活が楽である以上に「世界で一番おもしろい連中が」住んでいる場所だからだった、とヘミングウェイの伝記を初めて書いたカーロス・ベイカーは考えている。ガートルード・スタインやジェイムズ・ジョイス、エズラ・パウンドといった「若い物書きにキャリアの橋渡しができた」[25]作家たちとヘミングウェイはパリで出会った。パリで暮らし初めてすぐの彼は「背が高い二枚目、体は丈夫で肩幅もある、茶色の目、赤いほお、四角いあご、柔らかい声の若い男」だった[27]。ハドリーと2人でカルディナル・ルモワーヌ通りを少し歩いた74番地のラテンクォーターに住み、そこの近くに仕事部屋も借りた[25]。そしてパリにおけるモダニズムの領袖だった[28]スタインが、ヘミングウェイの師になった。彼女はモンパルナス・クォーターに暮らす外国人の作家やアーティストを紹介して「ロスト・ジェネレーション」という言葉を使った。そしてこの言葉は『日はまた昇る』が出版されるや人口に膾炙していく[29]。スタインのサロンの常連となったヘミングウェイはピカソやミロ、グリスといった影響力のある画家たちと知り合った[30]。しかし次第にスタインの影響が脱けていき、延々と続く文学論争となって2人の関係は破綻した[31]。一方でアメリカの詩人エズラ・パウンドとはサルヴィア・ビーチの書店「シェイクスピア・アンド・カンパニー」で1922年に偶然知り合いになった。2人は翌年イタリアに旅行し、1924年には同じ通りで生活した[27]。そうして確かな友情を築いたが、同時にエズラ・パウンドはヘミングウェイに若い才能を認め、それを育てるようになった[30]。アイルランド人の作家ジェイムズ・ジョイスを紹介したのも彼で、ヘミングウェイはよくジョイスとアルコールで「ばか騒ぎ」をしたのだった[32]。
パリで最初の20ヶ月間、ヘミングウェイは88本の記事を「トロント・スター」紙に送っている[33]。また希土戦争も追いかけてスミルナ大火を目撃し、また『スペインの鮪釣り』や『ヨーロッパの鱒釣り』のような短篇を書いた[34] 。1922年11月にはヘミングウェイに会うためハドリーがジェネヴァに来るが、ガール・ド・リヨンで彼の原稿がつまったスーツケースをなくしていたことを知り大変なショックを受けている[35]。続く9月にはトロントへ戻り、1923年10月日には息子であるジョン・ハドリー・ニカノールが産まれた。2人がアメリカを離れている間に最初の本である『三つの短編と十の詩』が出版されていた。短編のうち二つはスーツケースの中にはなかった作品で、三つ目の短篇は去年の春にイタリアで書かれていた。1ヶ月もしないうちに2冊目の『ワレラノ時代』[36]が刊行される。これは初めてスペインを訪れ、「闘牛」のスリルを知った前の年の夏に書かれた短篇を何本かおさめた薄い本だった。しかしトロントは退屈に感じられた。ジャーナリストよりも作家として生活したいと望むようになり、懐かしいパリへ戻りたいと思うようになった[37]。
ヘミングウェイ夫妻と息子(バンビーとニックネームがつけられた)は1924年1月にパリに戻り、ノートルダム・デ・シャン通りの新しいアパートメントに移った[37]。フォード・マドックス・フォードが編集人となった「トランスアトランティック・レビュー」に参加し、この頃にジョン・ドス・パソス、エズラ・パウンド、スタインなどの作品のほかヘミングウェイ自身の初期短篇である『インディアン・キャンプ』も出版された[38]。『われらの時代』[39]が1925年に出され、表紙にはフォードのコメントが載った[40][41]。これは『インディアン・キャンプ』に対するたいへんな讃辞であり、フォードはこの作品をまだ若い作家による重要な作品であるとみなした[42]。アメリカ国内の評論家もヘミングウェイが歯切れのよい文体と明晰な文章によって短編小説というジャンルを蘇らせたと評価した[43]。その6ヶ月前にはフィッツジェラルドとも面識を持ち、「尊敬と敵意」の友情を結んだ[44]。この年にフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』が出版されているが、ヘミングウェイも一読して気に入り、次の作品は小説でければならないと決意していたのである[45]。
1923年には妻のハドリーと一緒にスペインを訪れ、パンプローナのサン・フェルミン祭に初めて参加するが、そこで開かれていた闘牛にヘミングウェイは夢中になった[46]。そのためか1924年、1925年と再訪しているが、この年にはミシガン時代の男友達であったビル・スミス、スチュワート、ダフ・トワイズデン(離婚したばかりの)とその恋人のパット・ガスリー、ハロルド・ローブなど、アメリカ人とイギリス人とで国外在住者の集いを結成した[47]。数日後に祭りが終わったときには彼の誕生日だった。この日からヘミングウェイは『日はまた昇る』の原稿を書き始め、8週間後には完成させた[48]。数ヶ月後の1925年12月、冬を過ごすためにオーストリアのシュルンスへと出かけ、そこで大量の原稿を見直す作業にとりかかった。1月にポーリン・ファイファーがそこに加わり、ハドリーは反対したのだがスクリブナーズと契約するようにしきりに勧めた。ヘミングウェイはすぐにオーストリアを発って、出版社側と会うためにニューヨークへ小旅行へと出かけた。原稿の見直しはシュルンスへ戻る3月までには終えられ、かわりに帰る途中に泊まったパリでファイファーとの不倫関係が始まった[49]。原稿は4月にニューヨークへ届き、1926年8月にパリで最終的なチェックが行われた後の10月にスクリブナーの出版社から小説が出た[48][50][51]。
『日はまた昇る』は、戦後に国を離れていた世代の典型を描き[52]、大好評を博して「ヘミングウェイの傑作と讃えられた」[53]。ヘミングウェイ自身は後に編集者のマックス・パーキンスに宛てて手紙を書き、「小説の要点」は失われた世代ではなく、「大地は永遠にあり続ける」ことだと語っている。そしてこの長編の主人公たちは「打ちのめされた」かもしれないが、失われてはいないと考えていた[54]。
『日はまた昇る』に取り組み始めたころから、ハドリーとの結婚生活は終わりに近づいていた[51]。1926年の春、ハドリーはファイファーの不倫に気づき、7月にはパンプローナへ行く2人へついていった[55][56]。パリに戻るときになってハドリーから別居の話題が出て、11月には正式に離婚の申し出があった。財産を分け合う際に、『日はまた昇る』の収入も分配するというヘミングウェイの提案があり、ハドリーもそれを受け入れた[57]。そして1927年1月に離婚した彼は、5月にはポーリン・ファイファーと再婚している[58]。
ファイファーはヴォーグ誌で働くためにパリに出てきた、アーカンソー州の裕福なカトリックの家の生まれで、結婚する前にヘミングウェイを説得してカトリックに改宗させている[59]。ハネムーンにル・グロ・デュ・ロワに出かけ、そこで炭疽菌を感染する事件も起こったが、次の短編集の計画は順調に整い[60]、1927年10月に『男だけの世界』が出版された[61]。この年の終わり頃にファイファーが妊娠してアメリカに戻りたがったため、ジョン・ドス・パソスが薦めたキーウェストで生活するため1928年3月にパリを離れた。この春にヘミングウェイはパリのバスルームでひどい怪我をしている。トイレの水を流すチェーンだと思って天窓を引いて頭にぶつけてしまったのだ。このときの怪我は有名な額の傷となってその後も消えることなく残った[62]。そしてパリを離れた彼は「二度と大都市には住まなかった」[63]。
キーウェストとカリブ
[編集]春も終わるころヘミングウェイとポーリンはカンザスを訪れ、この土地で1927年6月28日にパトリックが生まれた。いわゆる難産であったが、ヘミングウェイはこの経験を『武器よさらば』に活かしている。パトリックが生まれると、ワイオミング、マサチューセッツ、ニューヨークと旅行してまわった[64]。秋にはバンビーを連れてニューヨークからフロリダへと出かけようとしていたが、ちょうど電車に乗りこもうというところで電報を受けとり、父親が自殺したことを知った[note 2][65]。すこし前に、父に宛てて経済的な問題については心配しなくてよいと手紙を送ったばかりのヘミングウェイは衝撃を受けた。この手紙は父が死んで数分後に届いた。ハドリーの父も1903年に自殺しているが、そのときハドリーが何を考えたのか、ヘミングウェイには理解できた。そしてこう語っている。「自分も多分同じ道を辿るだろう」と[66]。
12月にはキーウェストに戻るのだが、1月にフランスを離れる前にヘミングウェイは『武器よさらば』の原稿にとりかかっていた。この長編は8月には完成していたが、見直しは遅れた。「スクリブナーズ・マガジン」での連載が5月に始まる予定だったが、すでに4月も半ばを過ぎてなお結末の箇所がうまく決まらず、17回も書き直すことになった。こうしてできあがった小説は9月27日に出版された[67]。『武器よさらば』には『日はまた昇る』にはなかった深みがあり、この作品によってヘミングウェイは偉大なアメリカの作家としての地位を確立した、と伝記作家のジェイムズ・メロウは評している[68]。1929年の夏には次作の『午後の死』の下調べにスペインへ向かった。ヘミングウェイは「トレーロ」や「コリーダ」の解説ともなる包括的な闘牛論を書き、用語解説や付表も充実させたいと考えていた。彼は闘牛が「文字通りに生と死そのものであり、きわめて悲劇的である点に関心を持っていた」[69]。
1930年代の初めは冬をキーウェストで、夏をワイオミングで過ごす習慣になっていた。どちらも「これまで訪れたアメリカ西部で最も美しい所」であるとヘミングウェイはいい、シカやヘラジカ、ハイイログマなどのハントを楽しんだ[70]。そして三人目の息子グレゴリー・ハンコック・ヘミングウェイが1931年11月12日にカンザスで生まれた[71][note 3]。姪夫妻のためにポーリンの叔父がキーウェストに購入してくれた馬車置き場までついた家の二階部分がヘミングウェイの書斎になった[72]。灯台から通りをを一本隔てた場所にあり、夜通し酒を飲んだときでもすぐ自宅を見つけることができた。キーウェスト時代はよく地元のバー「Sloppy Joe's」に通った。ワルド・パースやドス・パソス、マックス・パーキンスといった友人たちを誘って[73]、ドライ・トートゥガスに男だけで釣りに行ったりもした。ヨーロッパやキューバを巡ることも忘れず、1933年にはキーウェストへ「こっちでもいい家に住んで、子供もみんな健康だ」と書いているが、メロウは「単に落ち着いていられないだけだった」としている[74]。
1933年にヘミングウェイとポーリンは東アフリカのサファリに出かけた。この10週間の旅行は『アフリカの緑の丘』や短篇『キリマンジャロの雪』、『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』などの素材になった[75]。2人はケニアのモンバサ、ナイロビ、マチャコスをまわって、タンガニーカへ行き、マニャラ湖周辺やセレンゲティ、今でいうタランギーレ国立公園の西や南東部で狩りをした。彼らのガイドは有名な「白いハンター」ことフィリップ・ホープ・パーシヴァルで、1909年にルーズベルトのサファリを案内した人物だった。旅行中にアメーバ赤痢にかかるが、腸管脱出をきたしてナイロビ行きの飛行機のなかでevacuateした経験は『キリマンジャロの雪』にも使われている。1934年はじめにキーウェストに戻ると『アフリカの緑の丘』にとりかかり、1935年に出版するが反応は賛否両論だった[76]。
1934年にはボートを買って「ピラー」と名づけ、カリブ海を走らせることを始めた[77]。翌年にははじめてビミニ島を訪れ、かなりの時間を過ごした[75]。この時期に『持つと持たぬと』を執筆しており、この作品はスペインに滞在中の1937年に出版された。1930年代に出た小説はこれだけだった[78]。
スペイン内戦と第二次世界大戦
[編集]1937年に北米新聞連合とスペイン内戦のレポートをするという契約を交わし[79]、オランダの映像作家ヨリス・イヴェンスと3月にスペインを訪れた[80]。イヴェンスは『スペインの大地』を映画化した人物で脚本家にはドス・パソスを要望していた。しかしドス・パソスの友人であったホセ・ロブレスが逮捕され(その後処刑された)、計画は取りやめとなった[81]。この事件によってドス・パソスは極左の共和主義者であった立場を違えてヘミングウェイとの間には溝が生じ、後にドス・パソスがスペインを離れたのは臆病だったからだという噂まで流れている[82]。
ヘミングウェイがジャーナリストで作家のマーサ・ゲルホーンにキーウェストで初めて会ったのは1936年のクリスマス・イブだった。その後スペインにも同行しているマーサは、ハドリーのようにセントルイス出身で、ポーリンのようにヴォーグで働いていた。マーサのことを「他の女がするような迎合めいたことは一切ヘミングウェイにしない」女性だったとカートはいっている[83]。1937年の後半にマーサを連れてマドリッドに行ったヘミングウェイは、彼唯一の戯曲である『第五列』を書いた。これは爆撃をまさに受けている街を舞台にしたものだ[84]。キーウェストに戻ってから数ヶ月たった1938年に彼は再びスペインに行き、今度はエブロの戦いに立ち会った。the last republican stand, and was among the British and American journalists who were some of the last to leave the battle as they crossed the river.[85][86]
1939年の春には自分のボートでキューバに渡り、ハバナのホテル・アンボス・ムンドスで過ごした。これはポーリンとの長い、緩慢ないさかいの末に別居していた時期である。その間もヘミングウェイと逢瀬を重ねていた[87]マーサはすぐに彼を追い掛けてキューバに行き、ほぼそれと同時にハバナから15マイル (24 km)離れた「フィンカ・ビヒア」 (Finca Vigia"Lookout Farm")が借りられている。現在のガルフストリームにあたる温かくて深い魅力ある海はヘミングウェイが「great blue river」と呼んだほどで、sailfish, kingfish, swordfish and [[marlin]などがよく釣れる素晴らしい土地だった。ハバナの東にあるコヒマルがハントをするときのお決まりの場所になった[88]。夏にはヘミングウェイのもとを去ることになるポーリンと子供達も、ワイオミングを訪問中には再び一緒になった。しかしポーリンとの離婚が決まるとすぐ、1940年11月20日にワイオミングのシャイアンでマーサと結婚した[89]。ハドリーと離婚してからも所有していた土地を売り払ったことで、サンバレーにできたばかりのリゾート地のすぐそばにあったケッチャムを避暑地としてもっぱら利用することになり、冬はキューバで過ごすようになった[90]。ヘミングウェイはキューバの家に何匹も猫を飼っていたが、パリの友人たちが飼い猫に「熱をあげて」テーブルからエサを食べさせようとするのには閉口していた[91]。
マーサ・ゲルホーンからインスピレーションを得たヘミングウェイは彼の最も有名な小説となる『誰がために鐘は鳴る』の執筆にとりかかる。1939年3月に始まった作業は1940年7月に終わった。出版はこの年の10月だった[92]。原稿を書きながら移動を続けるというパターンは変わることなく、『誰がために鐘は鳴る』もキューバ、ワイオミング、サンバレーで書かれている[87]。この小説はブックオブザマンスクラブが取り扱い、一月とたたないうちに50万部も売れてピューリッツァー賞にもノミネートされた。メイヤーによれば「ヘミングウェイ文学が堂々と再評価された」のだった[93]。
1941年1月にマーサは雑誌「コリアーズ」の仕事で中国行きが決まり、ヘミングウェイも同行して当時の新聞「PM」に特電を送っているが、概して彼は中国を好んでいなかった[94]。アメリカがこの年の10月に宣戦布告をするのだが、その前にマーサとキューバへ帰っていたヘミングウェイは、キューバ政府を説得して自分にPilarを改装させるよう支援させた。キューバ近海でドイツの潜水艦を待ち伏せするのに使おうとしたのである[16]。
1944年の6月から12月にかけて、ヘミングウェイはヨーロッパに滞在していたが、Dデーのときは上陸用舟艇から出してもらえなかった。軍の高官が彼を「貴重な積み荷」と考えていたからだというが[95]、伝記作家のケネス・リンによればこれは彼の創作で実際には上陸のあいだ海岸にいたのだという[96]。7月の終わりごろになって自分から「パリへと向かうチャールズ・T・ランハム率いる第22普通科連隊に」に参加したヘミングウェイは、パリ郊外のランブイエにある村の民兵からなる小集団を事実上まとめることになった[95]。後に世界大戦の歴史を研究するポール・ファッセルはその功績についてこう発言している。「ヘミングウェイが集めたレジスタンスたちを部隊として率いることには大変な困難があった。手際のよしあしではなく一記者が軍人を統率するということが想定外のことだったのだから」[16]。実際のところこれはジュネーヴ条約違反であり、ヘミングウェイには形式的ながら罰が与えられた。しかしただ助言をしただけだと主張したので「しろになった」と彼は言っている[97]。
8月25日にはパリの解放にも立ち会っているが、ヘミングウェイの伝説にあるように街に最初に足を踏み入れたわけでも、リッツを解放したわけでもない[98]。しかしパリでルヴィア・ビーチがホスト役となった「同窓会」に出席し、ガートルード・スタインと和解したのは事実である[99]。この年の終わり頃にはヒュルトゲンの森の戦いにも参加した[98]。12月17日には熱と吐き気をこらえて後にバルジの戦いと呼ばれる衝突の現場を押さえるためにルクセンブルグへ急いだ。しかし到着するなりランハムから医者を紹介され、肺炎と診断が出されて入院となり、一週間後に回復したときには戦いはあらかた終わってしまっていた[97]。
1947年にヘミングウェイは第二次世界大戦中に示した勇気により青銅星章を受章した。「戦況を正確に捉えるために戦地で砲火を浴びて」勇敢に行動したことが認められ、「天性の表現力により前線で戦う兵士と部隊の困難と勝利を鮮明に描いて読者に提示したヘミングウェイ氏」と賞賛された[16]。
その後初めてロンドンを訪れたが、このときにタイム誌の記者だったメアリ・ウェルシュと出会い、夢中になったのだった。顔を合わせて三度目には結婚を申し込んでいる。一方で爆発物を満載した船で大西洋を横断しなければならなかった―ヘミングウェイが飛行機に乗れるプレス・パスをとる手助けを断ったのだ―マーサは交通事故で震盪を起こして入院したヘミングウェイを探しにロンドンへ来ていた。マーサがこの婚約には納得するはずもなく、夫の強引さを責めたてたが、ついに彼女とは「正真正銘の、完全なお仕舞い」になった[100] 。キューバへ帰る支度の最中だった1945年3月を最後にヘミングウェイはマーサと顔をあわせていない[101]。
キューバ時代とノーベル賞
[編集]ヘミングウェイは1942年からの3年間、「作家としては廃業状態」だった[102]。1946年にメアリと結婚するが、5ヶ月後に新妻が子宮外妊娠していることが判明するなど、ヘミングウェイ一家は戦後何年にもわたって事故や健康問題に頭を悩まされていた。1945年には交通事故で「膝を砕かれ」、別の「酷い怪我を額に」負った。メアリも右と左のかかとをスキー事故で順番に痛め、1947年の自動車事故ではパトリックが頭を怪我して重傷になった[103]。そして文字通り友人であった人間が次々と亡くなり、ヘミングウェイはふさぎ込むようになった。1939年にはイエィツとフォード・マドックス・フォードが、1940年にはフィッツ・ジェラルド、1941年にはスチュワード・アンダーソンとジェイムズジョイス、1946年にはガートルード・スタインが死んだ。そして続く1947年には友人でありヘミングウェイが長年一緒に仕事をしたスクリブナー社の編集者マックス・パーキンスが亡くなっている[104]。この時期にヘミングウェイは酷い頭痛に悩まされるようになり、血圧も高くなって体重も増えた。そしてついに糖尿病になるが、これはそれまでの事故だけでなく長年の飲酒も原因だった[105]。それでも1946年1月には『エデンの園』にとりかかり、6月に800ページを書き終えた[106][note 4]。また戦後に『陸』『海』『空』と題した実験的な三部作の仕事を続け、『海の本』として一冊にまとめようとしていた。しかしこの計画は頓挫した。メロウはこの中断について数年来の「不幸がきざした」と言っている[107][note 5]。
1948年、ヘミングウェイとメアリはヨーロッパを旅行し、ウィーンに何ヶ月か滞在した。しかしそこで19歳のアドリアーナ・イヴァンチックと恋に落ちた。このプラトニック・ラブは『河を渡って木立の中へ』の触発源となった。この小説はメアリと不和であった時期にキューバで執筆され、1950年に出版されたが評判は芳しくなかった[108]。翌年には『河を渡って木立の中へ』に対する批評家の反応に激怒したヘミングウェイが8週間で『老人と海』の草稿を完成させた。「いままでの人生で一番よく書けた」と自賛した[105]『老人と海』はブックオブザマンスクラブが出版を手がけ、ヘミングウェイの名を世界に広める小説になるとともに1952年5月にはピューリッツァー賞を受賞した。アフリカへの二度目の旅行に出かけた翌月のことだった[109][110]。
1954年のアフリカでは二度続いた航空機事故により死の淵をさまよった。メアリへのクリスマスプレゼントにと、ベルギー領コンゴを遊覧する飛行機をチャーターして空からマーチソン滝の写真を撮りに行く途中で、廃棄された電柱に飛行機が衝突し「密に繁った藪に不時着した」。ヘミングウェイも頭などを怪我したが、メアリも肋骨を2本折った[111]。次の日にはエンテベに治療を受けに行くが、乗った飛行機が離陸時に爆発し、火傷だけでなく震盪も起こした。この事故で脳脊髄液漏出を生じるほど重い状態になった[112] 。なんとかヘンテベに着くと、そこにはヘミングウェイの死を記事にするため記者たちが集まっていた。ヘミングウェイは彼らと短くやりとりをしたが、治療のため数週間の入院をしているあいだ自分の死を伝える誤報を繰り返し読むことになった[113]。大けがにも関わらず、2月にはパトリックとメアリを連れて釣りをする予定で旅行しているが、痛みが我慢できず、とても平静に振る舞えない状態だった[114]。火事が起こったときはまた怪我をして、両足や胸、唇、左手と右前腕に2度の火傷を負った[115]。1ヶ月後にはウィーンで「メアリからヘミングウェイの受けた傷の全貌が明らかになった」。友人たちには椎間板を損傷し、腎臓、肝臓が破裂したうえ、肩を脱臼して頭蓋骨を折ったと伝えられた[114]。この事故はその後も長く尾を引く健康問題につながった。飛行機事故の後は「人生のほとんどを通じて酒を飲み、かろうじてアルコール中毒にならないものの、怪我の痛みと戦うために普通でないほど泥酔していた」[116]。
1954年10月にはノーベル文学賞を受賞した。ヘミングウェイは報道に対して控えめに、カール·サンドバーグ、アイザック・ディネーセン、バーナード・ベレンソンらのほうが賞にふさわしい作家だったが[117]、賞金はよろこんで受けとると述べた[118]。メロウは「ヘミングウェイはノーベル賞を切望していた」と言い、賞を取ったのは飛行機事故が起こってそれが世界に報道された一ヶ月後のことであったため、「ヘミングウェイの頭のなかには自分の死亡記事がアカデミーの決定を後押しする部分があったのではないかという疑念がいつまでも残った」といっている[119]。しかしアフリカの事故で痛い目にあっていたため、ストックホルムへは行かないことにした[120]。スピーチのための文章を送るかわりに、作家としての人生をわかりやすく解説し"Writing, at its best, is a lonely life. Organizations for writers palliate the writer's loneliness but I doubt if they improve his writing. He grows in public stature as he sheds his loneliness and often his work deteriorates. For he does his work alone and if he is a good enough writer he must face eternity, or the lack of it, each day."[121][note 6]
1955年の終わり頃から1956年初頭にかけてヘミングウェイは寝たきり状態だった[122]。肝臓の状態を悪化させないためにも酒を断つように言われ、はじめはその助言を聞いていたが、次第に構わず酒を飲むようになった[123]。1956年10月にはヨーロッパに戻りバスク人の作家ピオ・バロハと会ったが、彼は重い病で、数週間後には亡くなった。旅行中にヘミングウェイは再び病気にかかり、「高血圧、肝臓病、動脈硬化症」と診断された[122]。
11月にはパリで1928年にホテル・リッツに預けていたが戻ってこなかったトランクを発見した。パリでの日々を綴ったノートなどが詰まったトランクであり、興奮した彼は1957年にキューバに戻ると、再発見した自分の文章を『移動祝祭日』という回想録としてまとめる仕事にとりかかった[124]。1959年になると旺盛な作家活動の時期は終わりに近づき、『移動祝祭日』を完成させると『ケニア』("True at First Light")を20万字分書き、『エデンの園』にいくらか章を追加し、『海流の中の島々』に手を加える程度だった。『移動祝祭日』は絶筆として力が注がれたが、他の作品はハバナの貸金庫に保管されためまになった。レノルズによればこの時期にヘミングウェイは鬱状態になり、2度と回復することはなかった[125]。
フィンカ・ビヒアの家は招待客と観光客で人だかりになったため、ヘミングウェイにはこの土地での生活が不幸に思えるようになり、アイダホに永住することを考えはじめた。1959年にはケッチャムの郊外にビッグウッドリバーを見下ろす住宅を購入し、すぐにキューバを離れている。しかし彼は短期間ではあれカストロ政権の経験もしているらしく、ニューヨークタイムズにはカストロがバティスタを打倒したことを「喜んでいる」と話した[126][127]。パンプローナから西のアイダホへ行く道すがら1959年11月にはキューバにいたが(following year for his birthday)、この年にカストロがアメリカはじめ外国政府の所有する財産を国有化するというニュースを聞いて、ヘミングウェイ夫妻はキューバを離れる決断をする[128]。1960年7月を最後にキューバを離れ、artや原稿はハバナの貸金庫に置いていった。1861年にピッグス湾事件が起こると、フィンカ・ビヒアはキューバ政府に取りあげられ、ヘミングウェイの「4千から5千はあろうかという蔵書」も全て政府のものとなった[129]。
アイダホ時代と自殺
[編集]1950年代の終わりにかけて『移動祝祭日』として出版されることになる原稿を書く仕事を再開する[124]。1959年の夏には「ライフ・マガジン」の依頼を受けてスペインを訪れ、闘牛の記事を書くための調べ物をして、1960年1月にキューバに戻って執筆を始めた[130]。出版社からは1万字と注文されていたが、原稿は際限なく増え続けた。作家人生で初めて抑制的に書くということができなくなり、A・E・ホッチナーに助けをもとめキューバに来てくれるよう頼んだ。ホッチナーは「ライフ・マガジン」用に4万字まで刈り込んだが、結局スクリブナーズは13万字に及ぶ全文(『危険な夏』)を掲載することを認めた[131]。このときホッチナーはヘミングウェイが「尋常ではないほど混乱していて、まごつき、口ごもる」ことに気づいていた[132]。また彼は視力の低下にも苦しめられていた[133]。
1960年7月25日にはヘミングウェイ夫妻はキューバを離れ、2度と戻ることはなかった。ヘミングウェイは1人スペインを旅行し、いまの「ライフ・マガジン」の表紙となっている写真を撮った。数日してヘミングウェイが重病にかかり死の瀬戸際にあるというニュースが報じられ、メアリはパニックに陥るが、後に夫本人からの電報を受けとった。「誤報。まだマドリード。愛するパパより」[134] 。しかし実際には深刻な病であり、神経衰弱状態にあると考えられた[131]。『危険な夏』の初回が1960年9月に「ライフ」誌に載ると好評を博したが、ヘミングウェイは何日もベッドで1人横になり、静かに部屋にこもっていた[135]。10月にはスペインを出国しニューヨークに向かったが、メアリのアパートメントから出ようとしなくなった。見張られている、という理由を聞いたメアリはすぐにアイダホに連れて行き、電車のなかでジョージ・サヴィアー(サンバレーの医者)に診せた[131]。
当時ヘミングウェイは財布の中身や税金の心配をするだけでなく自身の安全にひどく不安を覚えていた[133]。原稿を貸金庫に置いてきたキューバにも戻ろうとはしなかった。偏執的になりだし、FBIがケッチャムでの生活を精力的に監視していると考えた[136][note 7]。11月の終わりには逡巡するメアリに、サヴィアーがミネソタのメイヨー・クリニックへ通わせることを薦めた。ここでヘミングウェイも高血圧症の治療ができると考えたのだろう[137]。名前を伏せるためにサヴィアーの名前で手続きが行われ[135]、メイヤーによれば「メイヨ―でのヘミングウェイの治療は秘密主義の雰囲気が強かった」が、1960年12月には電気痙攣療法が15回使われたことが確かめられており、翌年の1月には「廃人のようになって退院している」[138]。レノルズはメイヨーでの記録を辿って、ヘミングウェイは併用薬物療法によって鬱状態になった可能性があると考えている[139]
3ヶ月後の1961年4月にケッチャムに戻ったある朝、キッチンでメアリは「ショットガンを手にしたヘミングウェイに気づいた」。彼女に呼ばれたサヴィアーがヘミングウェイを落ち着かせ、サンバレーの病院に入る必要があると認めた。そしてメイヨー・クリニックでさらなる電気ショックの治療を受けた[140]。6月の終わりには退院となり30日にケッチャムに帰宅した。そして二日後の7月2日には「明らかに意図的に」お気に入りのショットガンで自分を撃った[141]。銃のある倉庫の金庫を開け、ケッチャムにある自宅の正面玄関の広間まで駆け上がって、「12口径のショットガン(Boss & Co.)に弾を二つ籠め、銃身の端を口に放り込んで、トリガーを引き脳天を撃ち抜いた」 。メアリはサンバレー病院に電話し、スコット・アール医師が「15分ほど」で家に到着した。彼の所見は、ヘミングウェイが「頭部に自ら与えた傷により死んだ」というものだったのにも関わらず、報道では「事故accident」による死だと発表された[142]。
The world breaks everyone and afterward many are strong in the broken places. But those that will not break it kills. It kills the very good and the very gentle and the very brave impartially. If you are none of these you can be sure it will kill you too but there will be no special hurry. |
—Ernest Hemingway in A Farewell to Arms |
最晩年のヘミングウェイのふるまいは自殺する前の父親とそっくりだった[143]。父親はおそらく遺伝によるヘモクロマトーシス(血色素症)であり鉄を代謝できずに心身ともに障害を抱えていた[144] 。1991年に閲覧可能になったカルテから、ヘミングウェイは1961年の初めにはこのヘモクロマトーシスと診断されたことが確かめられる[145]。そして姉弟のウルスラとレスターも自殺していた[146]。身体的にも不安を抱えていたが、人生のほとんどで大変な量の酒を飲んでいたことも問題だった[105]。
ヘミングウェイの家族と友人たちは葬儀に出席するためケッチャムに向かった。式を執り行ったのは地元のカトリックの司祭だったが、ヘミングウェイの死は事故によるものだと信じていた[142]。葬儀のこと(途中で侍者が棺から除く頭部に気を失った)を弟のレスターはこう書いている。「私にはアーネストが全てを承認しているように思えた[147]」。
メアリ・ヘミングウェイがマスコミのインタビューで夫が自殺したことを認めたのはそれから5年後のことである[148]。
執筆スタイル
[編集]ニューヨークタイムズは1926年にヘミングウェイの最初の小説を評して「どんな分析をしても『日はまた昇る』の素晴らしさを明らかにすることはできない。まさに人をとらえてやまないストーリー、無駄のない硬質で力強い語り口による散文は単に文学然としてある英語を圧倒している」と記事にしている[149]。実際に『日はまた昇る』は簡潔で引き締まった散文で書かれており、数え切れないほどの犯罪小説や三文小説に影響を与え、ヘミングウェイの名を世に知らしめた[150]。1954年にはノーベル文学賞を受賞するが、これは「直近では『老人と海』で示された卓越した語りの技術と現代の文学様式(style)に及ぼした影響」を評価されてのものだった[151]。
If a writer of prose knows enough of what he is writing about he may omit things that he knows and the reader, if the writer is writing truly enough, will have a feeling of those things as strongly as though the writer had stated them. The dignity of movement of an ice-berg is due to only one-eighth of it being above water. A writer who omits things because he does not know them only makes hollow places in his writing. |
—Ernest Hemingway in Death in the Afternoon[152] |
ヘンリー・ルイス・ゲイツはヘミングウェイの文体(style)が本質的に「戦争経験への反抗reaction」によって築かれたものだと考えている。第一次世界大戦後にヘミングウェイはじめモダニストたちは「西欧文化の中心的な制度への信頼を失った」が、19世紀の作家たちの彫琢された文体に反発し、「対話や行動、沈黙を通じて意味が生まれる」やり方を作り出すことで「そこではフィクションがまったく無意味であるか、少なくともほとんど重要ではないことがはっきりと示されている」(×)[16]。
短編作家として出発したという事実に注目するベイカーは、ヘミングウェイが「最小のものから最大のものを引き出す術を学んだ」としている。つまり「いかに言葉を刈り込み、いかに力強く表現し、いかに真実以上の何かを伝える余地を残しつつも真実だけを語るか、を身につけていた」という[153]。ヘミングウェイは自身のスタイルを「氷山の理論」になぞらえている。事実は海の上を漂い、そして構造と象徴を支えている何かは見えないところから操られている[153]。氷山の理論という概念は「省略の理論(theory of omission )」と言い換えられることがある。ヘミングウェイにとっての作家とは、水面下ではまったく別の何かがおこなわれているものを叙述することができる人間のことだった。『二つの心臓の大きな川』のニック・アダムスを例にとれば、彼はその別の何かを考えなくてもよいというところまで釣りに集中している[154]。
ジャクソン・ベンソンは人生一般を(ヘミングウェイ自身の人生ではなく)物語として構成する/枠づける装置(framing device)としてヘミングウェイの自伝的な細部が用いられていると指摘している。例えばヘミングウェイが自身の経験を利用してそれを「もしそうなら」というシナリオとともに描き出している、という。つまり「もし自分が夜も眠れないほどの怪我を負っていたら?もし傷つき、頭がおかしくなったなら、もし前線に送り返されたら何が起こる?」という風に[155] 。
ヘミングウェイの『短編小説作法』でもこう語られている。「真実だとわかっていることはわずかだ。よく知る重要な物や出来事を省くならば、小説は強度を増す。知らないという理由でなおざりにしたり飛ばしたりすれば、小説はつまらないものになる。小説の価値を判断するためには、編集者ではなく作者がいかに上手くものを省略できているかを知らなくてはならない」[156]。
I was always embarrassed by the words sacred, glorious, and sacrifice and the expression in vain. We had heard them ... and had read them ... now for a long time, and I had seen nothing sacred, and the things that were glorious had no glory and the sacrifices were like the stockyards at Chicago if nothing was done with the meat except to bury it. There were many words that you could not stand to hear and finally only the names of places had dignity .... Abstract words such as glory, honor, courage or hallow were obscene beside the concrete names of villages, the numbers of roads, the names of rivers, the numbers of regiments and the dates. |
—A Farewell to Arms[157] |
散文が平易であることはわかりやすいということではない。ゾーイ・トロッドによれば、ヘミングウェイが構築した枯れた文体(skeletal sentence)はヘンリー・ジェイムズへの返答でもあった。ヘンリー・ジェイムズが第一次世界大戦は言葉を「使い果たした(used up )」、と述べたことに対して、ヘミングウェイは「多焦点」による写実的なリアリティを提出したのである。そして省略による氷山の理論を土台にして創作を行った彼の従属接続詞を欠いた構文は静的な文章を生み出し、写真のごとき「スナップショット」的文体はイメージのコラージュを作り出す。文章中の様々な句読法(コロン、セココロン、ダッシュ、パーレン)が省略されるのは短い平叙文にするためである。ある文章をもとに別の文章が生まれ、描かれる出来事は全体を見通すことを許す。しかし一つの小説には複数の要素(strand)が存在し、例えば「埋め込まれたテクスト(embedded text )」は、異なるアングルから眺めることを可能にする。ヘミングウェイは幾つか映画的な技法を用いているが、ある場面から別の場面へと素早く移る「カッティング」もその一つだ。あるいは場面と場面の「スプライス(接合)」もそれにあたる。あえて省略することでできる空白を、作者による指示に従うかのように読者は埋めていく。かくて散文は立体的になる[158]。
Zoe Trodd. "Hemingway's Camera Eye".
文学でもエッセイでも、ヘミングウェイは習慣的に句読点の代わりに「と("and")」を用いる。こうした接続詞の畳用は直接性/無媒介性(immediacy)をもたらす。そしてそこでは―後期の作品になると従属節が用いられるが―胸をうつ光景とイメージとを並列するために接続詞が使われている。ジャクソン・ベンソンはそれらを俳句と比較している[159][160]。ヘミングウェイのフォロワーは何人もいるが、皆がその指導者を誤解し、感情にまつわるあらゆる表現を忌諱した。ソール・ベローはそれを風刺して、「感情があるって?押し殺せ」式のスタイルと呼んだ[161]。しかしヘミングウェイが目指すのは感情を排除することではなく、それをより精確に(sfientifically)描き出すことだった。感情を表現すること自体は簡単であり、それゆえにむだなことだと考えていたのである。ヘミングウェイがイメージのコラージュを作り上げたのは、何を把握するためだったかといえば「"the real thing, the sequence of motion and fact which made the emotion and which would be as valid in a year or in ten years or, with luck and if you stated it purely enough, always"」[162]。そして客観的相関物としてイメージを用いた作家にはエズラ・パウンド・エリオット、ジョイス、プルーストがいる[163]。ヘミングウェイは「失われた時を求めて」に言及した、少なくともこの本を2度読んだことを示唆する手紙を生涯のうち何度か書いている[164]。
テーマ
[編集]アメリカ文学において繰り返されるテーマはヘミングウェイの作品にも明らかに見て取れる。批評家のレスリー・フィードラーは「聖なる土地」と自らが定義するテーマを探っている。つまりヘミングウェイの作品におけるアメリカ西部は、スペインやスイス、アフリカの山を初めとしてミシガンの海流にまで広がっているのである。アメリカ西部というテーマは『日はまた昇る』や『誰がために鐘は鳴る』の「ホテル・モンタナ」という名前にもシンボリックな響きを与えている[165]。ヘミングウェイはまたスポーツについても書いているが、カルロス・ベイカーによれば力点はスポーツそのものではなく競技者にある[166]。ベン・ストルツフスとフィードラーは、ヘミングウェイの描く自然は再生と癒やしの場所であり、ハンターや漁師は獲物が殺されるときに超越的な瞬間を持つ[167]。自然においては男しかいない。男が釣り、男が狩り、男が自然に救いを求めるのだ[165]。
アメリカ文学における「暗い女性」と「明るい女性」の是非がヘミングウェイにあっては逆転している、とフィードラーはいう。例えば『日はまた昇る』のブレット・アシュリーは女神であり、『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』の明るい女性マーゴット・マカンバーは殺人を犯す[165]。ロバート・スコールズは初期の作品、例えば『ごく短い物語』などで「男性は好ましいものとして、女性は好ましくないものとして」描かれていると指摘している[168]。レナ・サンダーソンによれば、初期のヘミングウェイ評では力強さを追い求め、女性は「無気力か愛の奴隷か」に分けられる男性中心の世界が賞賛されていた。フェミニストの批評家はヘミングウェイが「社会最大の敵」だと攻撃したが、最近では再評価もされて、「ヘミングウェイ作品の女性には新たな視点が与えられており、彼一流の繊細さでジェンダーの問題が扱われていることが明らかになり、したがって彼の作品が一方的に男性寄りだという古い仮定には疑問の声が挙がっている」[169]。ニーナ・ベイムはブレット・アシュリーやマーゴット・マカンバーが「ヘミングウェイにおけるあばずれ女の顕著な例である」だと主張している[170]。
女性と死のテーマは早くも『インディアン・キャンプ』で明らかになり、その後も死のテーマはヘミングウェイの作品に一貫している。『インディアン・キャンプ』で重要なのは出産する女性や自殺する父親ではなく、むしろ子供の頃にそれを目撃し「心に深い傷を負い、神経質な青年」に育つニック・アダムスだとするのはヤングである。ヘミングウェイは『インディアン・キャンプ』におけるこれらの出来事をニック・アダムスの人格を形成するものとして描いたのだ。ヤングによればこの作品は「35年ほの作家人生を送った作者」の「最大の鍵」となる[171] 。またストルツフスは、ヘミングウェイ作品は実存主義における真実のあり方と複雑に結びついているとしている。「虚無」を悟れば、救いは死の瞬間にしか訪れない。そして死に尊厳と勇気でもって向かい合った人間が本当の生活を営んでいる。フランシス・マカンバーが幸せに死ぬのは、人生の最後が本物だったからである。コリーダの闘牛士は真実と生きる生活の絶頂を体現している[167]。論文「Authenticityの使用:ヘエミングウェイと文学場」でテイモ・ミュラーは、ヘミングウェイの小説が成功したのは登場人物が「真の生活」を営んでいるからであり、「兵士、漁師、ボクサー、僻地の人は現代文学における真実の典型である」と述べている[172]。
去勢のテーマもヘミングウェイの作品に広く見られ、最も有名なのが『日はまた昇る』である。フィードラーによれば去勢は傷ついた兵士の世代が存在することの結果である。そしてこの世代のブレットのような女性は解放される。この本の始まりに少しだけ姿を見せるコーンのガールフレンド、フランシス・クラインにもこれはあてはまる。小説の冒頭でテーマを明示しているだけでなく数度しか登場しないにもかかわらずコーンに大きな影響を及ぼしてもいることから、彼女はこのテーマを補強する登場人物といえる[165]。ベイカーはヘミングウェイの作品は「自然」と「不自然」の対立に力点があるとしている。『アルプスの牧歌』では春遅くまで雪が降る高地の国でスキーをするという「不自然さ」が、冬の間妻の死体をずっと納屋に置いたままにしている農民の「不自然さ」と対比されている。そしてスキーヤーと農民は、救いをもたらす「自然な」春まで谷間に隠棲しているのだ[166]。
ヘミングウェイの作品をミソジニーとホモフォビアによって特徴づけようとする批評家もいる。スーザン・ビーゲルはヘミングウェイ研究の40年間を分析し、「批判的受容」というエッセイを出版した。ビーゲルによれば、特に1980年代に「批評家は多文化主義に関心を持っていた」ため、単純にヘミングウェイを無視していた。しかし彼を「擁護」する批評家もいた。典型的なのは次のような『日はまた昇る』論である。「ヘミングウェイはコーンがユダヤ人であることを読者に忘れさせることはない。魅力的でない人物がたまたまユダヤ人なのではなく、ユダヤ人であるからこそ魅力がないのだ」。同じ頃に、ヘミングウェイにおける「同性愛の恐怖」とレイシズムを探った本が出版されているとビーゲルはいう[173]。
影響と伝説
[編集]ヘミングウェイがアメリカ文学で伝説的な存在になったのは、そのstyleによるものだった。彼に続く作家たちは模倣するか避けるしかなかったのである[174]。『日はまた昇る』が出版されその評価が定まると、ヘミングウェイは第一次世界大戦後の世代を代表する言論人となり、後発の人間のstyleをつくった[150]。一方ベルリンでは「堕落した現代の記念碑である」と焚書され、両親も「不潔だ」といって認めようとしなかった[175]。ヘミングウェイの伝説については「あまりに感動的な物語や小説を残したため、自分たちの文化遺産の一部に数えるものもいるほどだった」ともいわれる[176]。2004年にはJFKライブラリーでのスピーチで、ラッセル・バンクスが、ヘミングウェイの世代の男性作家たちがそうであったように、自分もヘミングウェイの作家としての理念やスタイル、社会的なイメージに影響を受けたと述べている[177]。またミュラーによれば「世界中のあらゆる作家のなかでも最も認知度が高い」という調査結果もある[178]。
そしてヘミングウェイの詳細な人生は「最高の商売道具」となり、ヘミングウェイ産業を生み出したとベンソンはいう[179]。「ハード・ボイルド」とマチスモは作者そのものと切り離すべきだという意見もあり[175]、ベンソンもそれに同意して、ヘミングウェイはサリンジャーと同様に内省的で秘密主義者であり、そういった本質に誇張という仮面をかぶせていたのだとしている[180]。実際にサリンジャーは第二次世界大戦中にヘミングウェイと会い、文通しており、その影響も認めている。ヘミングウェイに宛てた手紙のなかでサリンジャーは自分たちの会話が「戦争にあって唯一希望のもてる時間をもたらしてくれる」と述べて、冗談めかして「ヘミングウェイ・ファンクラブの全国代表と名乗っている」[181]。
その影響力はポップカルチャーにおけるヘミングウェイ賛歌やそのエコーにみることができる。ソ連の宇宙飛行士ニコライ・ステパノヴィチ・チェルヌイフが発見した小惑星にはヘミングウェイの名(3656ヘミングウェイ)がつけられたし[182]、レイ・ブラッドベリの『キリマンジャロ・マシーン』は、ヘミングウェイとともにキリマンジャロ山を登る話である[71]。1993年の映画「潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ」はフロリダの海辺の街を舞台にアイルランド人とキューバ人の退職した男2人の友情を描いたものだ[183]。あるいは「ヘミングウェイ」という名のレストランが無数にあることにも影響は明らかだろう。「ハリーズ」というバーまで増えている(『河を渡って木立の中へ』に登場する)[184]。ヘミングウェイの息子バンビーことジャックが売り込む家具には「キリマンジャロ」という机や「キャサラリン」というソファがあり、モンブランによるヘミングウェイの名を冠した万年筆、サファリ用の服なども試作された[185]。1977年に創設された国際ヘミングウェイそっくりさんコンテストは、公然と彼の影響力を宣言するものであるが、つまらない作家をヘミングウェイのものまねとして扱う滑稽な大会である。参加者には「劣化ヘミングウェイの名文」を提出することが求められ、優勝者はイタリアのハリーズ・バーに旅行することができる[186]。
1965年にメアリ・ヘミングウェイがヘミングウェー財団を設立し、70年代には夫の草稿などをJFKライブラリーに寄付した。1980年にはヘミングウェイの研究者たちが会してこの草稿を精査し、後に協会を設立して「ヘミングウェイ研究者を支援し、養成することにつとめた」[187]。
作家の死からきっかりほぼ35年が経った1996年7月1日、孫のマーゴ・ヘミングウェイがカリフォルニア州サンタモニカで亡くなった。モデルであり女優だったマーゴは妹のマリエルとリップスティック(1976年)で共演したこともあった[188]。マーゴの死は後に自殺と判断され、「4世代にわたる一族の5人目の自殺者」が誕生した[189]。
Selected list of works
[編集]- "Indian Camp" (1926)
- The Sun Also Rises (1926)
- A Farewell to Arms (1929)
- "The Short Happy Life of Francis Macomber" (1935)
- For Whom the Bell Tolls (1940)
- The Old Man and the Sea (1951)
- A Moveable Feast (1964, posthumous)
- True at First Light (1999)
See also
[編集]- American literature
- Family tree showing Ernest Hemingway's parents, siblings, wives, children and grandchildren
Notes
[編集]- ^ ヘミングウェイは姉弟が5人いた。マルセリーヌ (1898年生)、ウルスラ(1902年生)、マドレーヌ(1904年生)、キャロル(1911年生)、レスター(1915年生)である Reynolds (2000), pp 17–18
- ^ クラレンス・ヘミングウェイは父が内戦で使ったピストルを自分に向けた。 See Meyers (1985), 2
- ^ グレゴリー・ヘミングウェイは性別適合手術を1990年代半ばに受けてからグロリア・ヘミングウェイの名で知られるようになった。 See Hemingway legacy feud 'resolved'. BBC News. October 3, 2003. Accessed April 26, 2011.
- ^ 『エデンの園』はヘミングウェイの死後1986年に出版された。 See Meyers (1985), 436
- ^ このときの原稿は死後に『海流の中の島々』として出版された(1970年) See Mellow (1992), 552
- ^ The full speech is available at The Nobel Foundation
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- Ernest Hemingway at C-SPAN's American Writers: A Journey Through History
Template:Hemingway Template:Nobel Prize in Literature Laureates 1951-1975 Template:PulitzerPrize Fiction 1951–1975
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